2017年7月17日月曜日

ほめる に難航している 2



親が子をほめる
さて以下は各論であるが、これまでの議論を下敷きにしたい。
親として子をほめる場合は、独特の事情が加わる。思い入れだ。私自身の体験を踏まえて論じるのであるが、自分の子供の達成をどのように感じるかは、親がどれだけ子供に感情移入をしているかに大きく影響される。たとえば床運動の選手が「後方伸身宙返り」の着地を見事に決めるのを見て「すばらしい!」と感激する人も、公園でどこかの乳児がおぼつかない足取りで一歩を踏み出す様子を見て特別に感動することはないはずだ。ところがそれがわが子の初めての一歩だとなると、これは全く違う体験になる。これまでの十数ヶ月の成長を毎日追ってきた親にとっては、わが子が初めて何にもつかまらずに踏み出した一歩は、すばらしい成長の証であり、紛れもない偉業にさえ映るだろう。見知らぬ子とわが子で、どうしてここまで感動の度合いが異なるのだろうか? それは親がどこまで子供に思い入れをし、どれほど感情移入しているかによる。先ほど述べた「想像力」の問題と考えていい。私はこの親による子への思い入れを、「同一化による思い入れ」と、「自己愛的な思い入れ」の二つに分けて論じたい。
まずは同一化の方である。子供がハイハイしていた時は、親は自分も心の中でハイハイしているのだ。そしてつかまり立ちしようとしているとき、親も一生懸命立ち上がろうとしている。そして立ち上がり、一歩踏み出した時の「やった!」感を親も体験している。それまではハイハイしかできなかった自分にとってこれほど劇的な達成はないのだ。
もうひとつの思い入れは、自己愛的なそれである。子供が一人歩きをする姿を見た親は、自己愛を満足させる可能性がある。もう少し分かりやすい例として、わが子が漢字のドリルで百点を取って持ち帰った場合を考えよう。するとそれを聞いた親の脳裏に浮かぶ様々な考えの中には、「自分の遺伝子のおかげだ(自分も生まれつきその種の才能を持っているに違いない)」が含まれているに違いない。しかしもし血が繋がっていなくても、「自分の教え方がよかったからだ」「自分の育て方がよかったからだ」「自分が教育によい環境を作ったからだ」など、いろいろと理屈付けをする。結局親はわが子の漢字ドリルの成績をほめながら、同時に自分をほめているのだ。
ここに述べた思い入れの二種類、つまり同一化と自己愛によるものがどのように異なるかは、子供がとてもほめられないような漢字ドリルの答案を持ち帰った際の親の反応を考えれば分かる。子供に強く同一化する親なら、子供が零点の漢字テストの答案を見せる際のふがいなさや情けなさにも同一化するだろう。もちろん親にとっても我がことのようにつらい。同一化型の親は子供を叱咤するにせよ、慰めるにせよ、それは自分の失敗に対する声掛けと同じような意味を持つことになる。
 自己愛の要素が強い親の場合には、零点の答案を見た時の反応は、何よりもそのつらさを味わっているはずの子供への同一化を経由していない。その親は何よりも自分のプライドを傷つけられたと感じる。その親は子供により恥をかかされたと感じ、烈火のごとくしかりつける可能性がある。別のところでも論じているが、自己愛の傷つきは容易に怒りとして外在化される。それは最も恥を体験しているはずの子供に対して向けられる可能性をも含むのである。
ただしこの二種類の思い入れはもちろん程度の差はあってもすべての親に共存している可能性が高い。そしてその分だけ子供の達成あるいはその失敗に対する親のかかわりはハイリスクハイリターンとなる。ほめることは莫大な力を生むかもしれないが、叱責や失望は子供を台無しかねないだろう。自らの思い入れの強さをわきまえている親は、直接子供に何かを教えたり、トレーナーになったりすることを避けようとする。ある優秀な公文の先生は、自分の子供が生徒の一人に混じると、その間違えを見つけた時の感情的な高ぶりが尋常ではないことに気が付き、別の先生に担当をお願いしたが、それは正解であったという。医師の仲間では、自分の子供の診察は、たとえ小児科医であっても決して自分ではせず、同僚の医師に任せるという不文律がある。これも自分の子供に対する過剰な思い入れ(同一化、自己愛の対象)が診断や治療を行うものとしての目を狂わすということへの懸念であろう。ただしそれでも「父子鷹」(おやこだか)のように親が同時に恩師であったりトレーナーであったりする例はいくらでもある。とすれば、親から子への思い入れは子供の飛躍的な成長に関係している可能性も否定できないのだ。
ところでこれらの思い入れの要素は、最初に述べた純粋なる「ほめたい願望」とどのような関係を持つのだろうか? これは重要な問題である。いずれにせよ親はその思い入れの詰まった子供と生活を共にし、ほめるという機会にも叱責するという機会にも日常的に直面することになる。おそらくその基本部分としては、やはり純粋な「ほめたい願望」により構成されていてしかるべきであろう。思い入れによりそれが様々影響を受けることはもちろんであるが、その基本にほめたい願望が存在しない場合には、子育ては行き詰るに違いない。
それ以外にも親は先述の「方便として」ほめることも考えるであろう。本当は子供の達成が親にとっては不満足だったり、感動を伴わなかったりする。それでも親はこう考えるかもしれない。「一応ここでほめておこうか。そうじゃなくちゃかわいそうだ。それにほめられることで伸びるということもあるかもしれないじゃないか。」もちろんそれがいけないというわけではないにしても、私はそこには純粋さが欠けていると考える。本来の褒める行為は純粋な「ほめたい願望」を含んでいなくてはならない。いや、こう言い直そう。純粋な「褒めたい願望」を有さない人間にうまい褒め方はできないだろう。本当に人を伸ばす力を有する褒め方もできないはずだ。なぜならそこには自然さがないからである。

教育場面、臨床場面でほめること
さて臨床場面や臨床場面でほめるという行為はこの論文の本質部分でなくてはならないが、これまでの主張で大体議論の行き先はおおむね示されているだろう。ただし親が子をほめるということとは異なり、教師や治療者がほめる場合には、そこに別な要素が加わる。それは彼らが生徒や患者とのかかわりにより報酬を得ていることであり、そこに職業的な倫理が付加されることである。もちろんそこに相手(生徒、患者)への思い入れは存在するものの、親の子に対する思い入れに比べてその要素はより希薄であるはずだ。そしてその職業的な倫理観は、報酬の与え方によりかなり異なるはずである。有料の家庭教師や精神療法のセッションの場合は、相手との対面時間がより有効に、相手のために使われるべきであることをより強く意識するであろう。その結果として、純粋な「ほめたい願望」はより補強されるはずである。さらには親の子に対する思い入れに似た思いいれも強まる可能性がある。教師や治療者は相手と長い時間をすごし、同一化の対象となることが多い。また教育的ないし治療的なかかわりの成果が自分の職業的なプライドやアイデンティティに結びつく以上、そこに「思い入れ」の要素もそれだけ加わるはずだ。
ただし他方では教育者および治療者としてのかかわりは、それが報酬を介してのものであるということから、そのかかわりはよりドライでビジネスライクなものとなる可能性もまた含んでいる。職業外での相手との接触は、特に治療者の場合はむしろ控えられ、そうすることもまた職業的な倫理の一部と感じられるかもしれない。
更には技法としての「ほめる」もここに関与してくる。生徒や患者の達成や成果に対して、特に感動を覚えなくても、それを「教育的」ないし「治療的」な配慮からほめるという事も起きるだろう。ただしここには冒頭に述べたような複雑な事情が絡んでくる。ほめるということが果たして治療的になるのか、それは患者をいたずらに甘やかしているのに過ぎないのではないか、という懸念は、特に精神分析的な関与の際は考慮されることになる。この点について最後に私の個人的な考えを述べておきたい。
現代的な精神分析の観点では、治療者と患者の関係性の重要性が指摘されている。そこでは治療者が患者といかなるかかわりを持ち、それを同時に患者とともにいかに共有していくかは極めて重要な要素となる。患者の達成や進歩に対して治療者がいかなる気持ちを抱くかを伝えることもまた患者が自らを知り、治療者の目にどのように映るのかを知る上で非常に重要となる。「ほめる」という要素がそこに加わることは十分ありうるであろう。ただしその上で言えば、心理療法にほめるというかかわりが必要であるかという点に関しては多少なりとも疑問を感じる。ほめるには、感動を相手に伝え、その喜びを共有する意味がある。それは単回生のコミュニケーションの手段として重要ではあるが、継続的な治療においてどの程度意味があるのかは不明であるという。ほめるというのが相手に気持ちを伝えるのと同様にどこか上から目線なところがある。「ほめる」ではなくとも、「感動を伝える」でいいのではないか。
たとえばセッションを休みがちであった患者が、最近毎回来院できるようになったとする。治療者はその成果を嬉しく思い、「最近は毎回いらっしゃれるようになりましたね。よくかんばっていらっしゃいますね。」と「ほめ」たとしよう。特に問題のない関わりであり、治療者は自分の正直な気持ちを伝えている。それを伝えられた患者も嬉しいだろう。しかし心理療法には単に患者が成果を治療者にほめられて嬉しく思い、治療動機が更に増す、という単純な流れに従わない部分があまりに多い。たとえば治療にこれないと言うことが、治療者に対する複雑な気持ちを反映しているとしよう。たとえば患者は治療のあり方や治療者の対応に疑問を感じている。それをうまく表現できずに治療動機を失いつつあるとする。そのとき治療者の「よくがんばっていますね」は、患者の気持ちの複雑さやそこに自分がどのように関係しているかについて顧慮せず、ただ来院することが治療の進展を意味するという単純な考えを示しているに過ぎないと患者が思うかもしれない。治療者はそれよりも、「あなたが治療に毎回来院できるようになっていることは喜ばしいと感じますが、あなたはどのように感じますか?」というかかわりのほうがより適切であろう。もちろんそれで患者が複雑な思いをすぐに語れるというわけではないであろうが、少なくとも治療者が来院イコール改善という単純な考えに対する疑問を持っていることを暗に伝える役割を果たすであろう。
この後者の言い方について、改めて考えてみよう。「よくがんばっていらっしゃる」の部分はほめ言葉なのであろうか?それは実は受け取る側の患者の気持ちに大きく依存していることが分かる。来院が患者にとって当たり前のことで、かつ容易であるならば、これはほめ言葉として意味をなさない。来院よりも、セッション中に何を伝えることが出来るかが大切だと考える患者にとっては、来院そのものをほめられることの意味は少ないであろう。しかし来院すること自体に非常に苦労し、その苦労を治療者に分かって欲しい場合には、この言葉は始めてほめ言葉としての意味を持つのである。その意味では「よくがんばっていらっしゃいますね」は患者がそれに対する評価を欲している場合においてのみ意味を持つことになる。社会人が毎朝通勤して、上司に「今日も出社して偉いね」といわれることにはほとんど何の意味も感じないという例を考えれば分かるだろう。
ただし治療者が患者の来院そのものを成果と感じ、喜ぶ場合には、それを伝え、その患者の感じ取り方を含めて考えていくことは、むしろその治療者にとって意味がある可能性は無視できない。本稿の前半で述べたとおり、ほめたい願望の純粋部分は、患者の喜びを喜ぶという愛他感情である。患者が進歩を見せる。あるいは喜びの感情を見せる。もちろん喜びの対象は患者の表層上の喜びにはとどまらない。それは患者と共有されていると思う限りにおいて口にされることで患者の治療意欲を大きく高めるであろう。たとえ患者がその喜びを当座は感じていなくても、将来きっと役立つであろう試練を味わっていると治療者が思う場合には、やはりそれも心のどこかで祝福するのだ。そしてそれは純粋なるほめたい願望を持つ親の子供に対する感情と変わりない。
最後に治療者がほめることの技法部分についても触れたい。これは特に治療者が感動しなくても、ほめることが患者にとって必要である場合にそれを行うという部分である。私がこの技法としてのほめる部分が必要であると考えるのは、治療者の気持ちはしばしば誤解され、歪曲された形で患者に伝わることが多いからだ。先ほどの例をもう一度使おう。この場合は患者の治療意欲は十分であったが、体調不良や抑うつ気分のせいで、セッションに訪れるだけで精一杯であったとしよう。そしてそれを治療者にわかってほしいと願う。治療者は内容が特に代わり映えのないセッションの積み重ねに若干失望していたとする。患者が毎回来るだけでも必死だということへの顧慮はあまりない。ただスーパービジョンを受け、あるいはケースを見直し、ふと「自分はこの治療に過剰な期待を持っているのではないか?」「自分はこの患者が出来ていないことばかりを見て、できていることを見ていないのではないか?例えば以前の治療関係ではごく短期間しか継続できていなかった治療がここまで続いているということを自分は評価したことがあっただろうか?」治療者はこの時おそらく半信半疑でありながらも、こんなことを考える。「もしかしたら治療が続いていることに対しての労いを患者は期待しているのではないか?」治療者は次の回で伝えてみる。「あなたが体のだるさや意欲の減退を押して毎回通っていらっしゃるのは大変なことだと思います。」
本当は治療者はこの「大変さ」を心の底から実感していない。ただ患者の立場からはこの言葉が意味を持つのではないかということは理屈ではわかる。治療者は方便として「ほめる」のである。それを聞いた患者側はどう感じるだろうか? もし患者側が「久しぶりに、先生に私のことを分かってもらったという気がしました」と伝えることで、治療者がそれを意外に感じるとともに、自らの治療に対する考え方を再考するきっかけになるとしたら、これもやはり意味があることなのだろう。彼は純粋なる「ほめたい願望」の射程距離を少し伸ばせたことになるのだろう。