2017年7月16日日曜日

ほめる に難航している 1

「褒める」原稿がまとまらない。迷走をしている。何度も書き直している。
日本人にとっての「ほめる」 

はじめに

「ほめる」とは非常に挑戦的なテーマである。心理療法の世界ではある意味でタブー視されていると言ってもいいだろう。精神分析においては、その究極の目的は患者が自己洞察を獲得することと考えられるが、ほめることは、それとはまさに対極的ともいえるかかわりである。その背後には、洞察を得ることには苦痛を伴い、一種の剥奪の状況下においてはじめて達成されるという前提がある。
一般に学問としての心理療法には独特のストイシズムが存在する。安易な発想や介入は回避されなくてはならない。人(患者、来談者、バイジー、生徒など)をほめることは一種の「甘やかし」であり、その場しのぎで刹那的、表層的な介入でしかなく、そこに真に学問的な価値はないとみなされる。
しかし目に見える結果を追及する世界では、かなり異なる考え方が支配的である。かつてマラソンの小出監督は、「欠点を探すんじゃなくていいところだけ見て、お前、すごいなと言ってやればいい」と語っている。(高橋尚子、小出義雄、阿川佐和子 阿川佐和子のこの人に会いたい 342 週刊文春、2000年6月1日号)いかに選手のモティベーションを高めるかが重要視される世界では、「ほめる」ことはその重要な要素の一つとみなされる。また動物の調教の世界などでも、報酬を与えることが重要視される一方では、叱る、痛みを与えるなどのかかわりは問題外とさえ言われているようだ。
実際に私たちがあることを学習したり訓練したりする立場にあるとしよう。そこでの努力や成果を教師や指導者からほめられたいと願うことはあまりに自然であろう。おそらく「私はほめられることが嫌である」という人はかなり例外的であり、おそらくパーソナリティ上の問題を疑われかねないだろう。ほめられることで人はこれまでの苦労が報われたと感じ、さらにやる気が出るものだ。ほめられた時に単にお世辞を言われたり、精神的に「甘やかされた」と感じることは少なく、むしろ自らの努力を正当に評価されたと感じるものである。だから儀礼上は人は過剰にほめあい、お世辞を言い合うことで人間関係を円滑にしようと試みるのである。
このように日常的、社交的なかかわりにおいてはその存在理由や有効性が自明でありながら、治療者のかかわりとしては様々な議論を含むのが、この「ほめる」という行為なのである。

純粋なる「ほめたい願望」

まずは私自身の体験から出発したい。私は基本的にはある行為や物事に心を動かされた際には、その気持ちをその行為者や作者に伝えたいと願う。たとえばストリートミュージシャンの演奏に感動したら、「すばらしかったですよ」と言いたくなるし、大き目のコインを楽器ケースに入れたくなる。見事な論文を読んだら、その作者に「とても感動しました」と伝えたい。学生の発表がすばらしと思ったら、その思いを当人に知らせたくなる。その際に私は具体的な見返りを特に期待はしていない。もちろんそう伝えられた相手が「本当ですか? 有難うございます。」と喜びの表情を見せたら、私も一緒に喜びたいと願う。しかしそのような機会が得られないのであれば、その気持ちをメッセージで一方的に伝えるだけでもいいのである。そこで私にはこの比較的単純でかつ純粋に思える願望を、とりあえず「ほめたい願望」と呼ぶことにしたい。そしてこれは程度の差こそあれ、私たち皆が持っていて、それが「ほめる」という行為の基本にあると考えるのである。
ただしこの考えにはたちまち異論が予想される。「純粋な、というが、この願望はその他の願望が形を変えたものではないか、たとえば自分自身がほめられたいという願望から派生しているのではないか? 人はほめることにより、相手に同一化してほめられるという身代わり体験をしているのではないか?」その可能性も否定できない。しかし「ほめたい」という願望がほめられたいことの裏返しとは限らない。ほめた相手に「そういうあなたも素晴らしいですよ」といわれたら当惑し、「いやいや、そう意味でほめているのではありませんよ」と言いたくなるだろう。私はこの純粋なる「ほめたい」は、むしろ誰かと一緒に何かを喜びたいという比較的単純な願望に近いような気がする。だからむしろファンの心理に近い気がする。将棋の連勝記録を伸ばして快進撃を続ける若手棋士のファンになってしまい、勝利を一緒に喜ぶというのもその類だろう。しかしその場合喜びの気持ちは単独でも生じ、相手にわざわざそれを伝えてほめてあげようとまでは思わないだろう。つまりこれでは自分が相手をほめるという能動的な行為が必要となる理由を説明できない。
私は基本的には純粋なる「ほめたい願望」は愛他性(利他性)に派生していると考える。愛他性とは他人の幸福や利益を第一の目的とした行動や考え方である。愛他性はその純粋さについてや自己愛との関連で様々な議論を含むものの、その原型は確かに母親の子供に向ける気持ちに見出されるであろう。私たちが人助けをしたり、他人の幸福を喜びとしたりする体験を全く持たないという方がむしろ稀であり、愛他性は程度の差こそあれ人が持っている基本的な感情である。もちろん私たちは何の根拠もなく素性のわからない他人を利することにはある程度の抵抗を覚えるであろう。しかしある時ある人の行為や作品に感動を覚えた場合に、それを当人に伝えることには正当な根拠があり、かつそれが相手の喜びや満足感をもたらすとしたら、それは比較的自然な愛他性の表現と言えよう。それが私の述べる純粋な「ほめたい願望」の正体であろう。
さて以上純粋なる「ほめたい願望」について論じたが、これが発揮されない要因はたくさんあるであろう。たとえその人に「ほめたい願望」が生じても、ほめることに伴う様々な事情が、ほめることを思いとどまらせたり、その願望の存在を覆い隠したりするだろう。その理由の最大のものは羨望である。例えばある画家Aさんの絵画があなたの感動を呼ぶとする。しかしあなた自身も画家で、またAさんはあなたにとってライバル関係にあるという状況を考えよう。あなたはAさんにその絵画の出来を素直に賞賛する気持ちになるだろうか? しかもあなたは受賞経験などの優れた実績があり、Aさんにはそれだけの絵を描き上げるほどの実力派備わっていないであろうと慢心していたとする。Aさんの絵画に対する感動が本物であるほど、あなたは強い羨望を掻き立てられるかもしれない。もちろんそこからはあなたの性格やこれまで獲得した処世術が大きく影響するであろうが、おそらくその羨望の念が薄れるまでに一定の時間がかかり、その間はすなおにAさんに祝福の言葉をかけることはできないかもしれない。またもしあなたとAさんとの関係が最初から敵対的であるならば、「ほめる」などという願望は最初から起きない可能性ももちろんある。

技法ないしは方便としてのほめること

これまで純粋なる「ほめたい願望」について考えたが、同時に現代社会において私たちが純粋に感動する機会は少なくなっているという可能性にも言及した。ましてや教育者や臨床家が出会う生徒や患者が生み出す作品や成果に感銘を与えられる機会はさらに限られるであろう。それでも私たちはほめるということを止めない。彼らの自己愛を支え、努力を続けるモティベーションを維持しなくてはならない。ここに特に感動は伴わなくても教育的な配慮からほめる、という必要が生じる。さらには社会生活を営む上では、さらに表面的で儀礼的に「ほめる」ことが多い。これは相手に対する教育的、治療的な配慮というよりは、社会的な関係をより円滑に進めるために、言わば方便として「ほめる」ということになる。ネットを見れば、「一般社団法人 ほめる達人協会」とか「ほめる検定」とかの宣伝がある。ほめることがある種の特殊な効果を与え、それが人間関係を高めるということは実際にあるだろう。
これらは技法的な「ほめる」行為と呼んで差支えないだろう。極端な言い方をすれば、必要に応じて、その効果を見込んだうえで「ほめる」ことである。これまでの言い方になぞられるのであれば、これは「純粋でない」「ほめたい願望」ということにもなろう。私は技法としてほめることについて考える際、つい浮かんでくるイメージがある。皆さんは水族館などでアザラシの芸を見ることがあるだろう。トレーナーはアザラシが一つの芸をやるごとに、切れ目なくエサの小魚を与えている。ほめることが検定の対象となったり、一種の技法となることを考えると、あのアザラシの魚と同じことを「ほめる」ことで達成している気がする。もちろん私はそれが悪いと言うつもりはない。これらはこれらなりにその十分な機能を果たしているのであろう。ただ純粋な「ほめたい願望」によるものとの差異を認識しておくことは重要である。
ある患者Aさん(20歳代、男性)は、小学校3年の体験を今でも明確に覚えているという。その頃不登校がちだったが、9月から一念発起して登校を始めた。すると夏休みの宿題として提出した作文が特別な賞を与えられた。誇らしい気持ちで担任にお礼を言おうと向かった職員室で、担任がほかの先生に話すこんな声を耳にした。「Aの作文が特にいいというわけではなかったんですが、登校意欲を高めたいと思いまして…。」Aさんはこれを心の傷として今でも抱えているという。
Aの作文に賞を与えるという行為が、純粋なほめたい願望から出た場合には起こり得なかった悲劇だろう。
さてここまでは純粋な「ほめたい願望」と技法としてほめることをもっぱら対置的に論じてきたが、ここで両者の関連性にも目を向けておきたい。人の達成や作品に私たちが感動を覚えない場合、それを感動を与えない作品のせいばかりに出来るだろうか?当然そうではないはずだ。考えてもみよう。人の作った作品や達成した成果そのものは、それを見る人によりいくらでも評価が異なるし、またその人が持つ想像力によりそれが変わってくる。人は基本的には自己愛的であるから、自分の達成にしか目がいかない。しかし日頃私たちが当たり前のように受け取っている事柄には、私たちがひとたび注意を向けることでようやくその価値が感じられることがある。私は家人に家事をしてもらっているが、これは少し想像力を働かせばいかに大変なことがわかる。いつも家を清潔に保ち、夕食時には食卓に食事が並んでいるということに驚き、感動しないのは、単にそれに慣れてしまい、それを提供する側の体験を想像しなくなっているからなのだ。「ほめる検定」が目指しているのは、それが単に技法や儀礼にとどまらず、人に心から感謝することであるとしたら、実は「ほめる」ことを方便としてしか考えていない方が浅薄で想像力が欠如していることを意味するのではないか? 先ほどのアザラシの芸だって、トレーナーの人はこう言うかもしれない。
「魚が持つ意味を軽視してはなりません。彼はアザラシ君と私とのコミュニケーションなのです。いつも絶妙なタイミングで好みの魚を差し出してあげることで、アザラシ君は私からの愛情を受け取っているのです。魚はその一つのカタチにすぎません。彼だって本当は魚が欲しくて芸をしているわけではありません。そう、彼は私の手から魚を貰ってくれているんです。人間でも『ありがとう』っていうでしょう。魚はそのねぎらいの言葉とおなじなんです・・・・・。」うーん、なんかそんな気になってきた。
ともかくも、いっぽうに純粋な「ほめたい願望」を立てるとしたら、他方にはそうでないもの、技法としてのほめることが考えられるわけだが、この二つは実は人間の想像力というファクターを介して絶妙につながっているということを付け加えておきたいわけだ。
ところでこれまでは、ほめたいという願望や方便としてのほめることについて述べたが、一方のほめられたいという願望についてはどうであろうか?ほめたい願望を利他性との関連で考えた際に、人がほめて欲しいと願望することについては異論の余地がないと考えていた。「はじめに」で「ほめられることが嫌である」という人はかなり変わっている人であろうと述べたが、ほめられることは自己効力感を高め、自尊感情を高める上で極めて重要な体験といえるだろう。人は自分の存在を認められ、評価されることを渇望している。その意味では純粋な「ほめたい願望」を持ち合わせていない人でも、純粋なる「ほめられたい願望」が欠如する人を想定することは、それこそ自己愛を持ち合わせていない人を想定するようなものであろう。
日常生活や臨床体験から思うことであるが、人は方便として他人からほめられる際にも、それを純粋に、心からほめられたものとして理解する傾向があるように思われる。もちろん人によってはあらゆる賞賛を疑わしいと感じる人もいるが、他方では人は明らかに自分の業績や作品については贔屓目に見る傾向があるように思われる。これを私は「自己愛的な偏重narcissistic tilt 」と呼びたい。要するに自分の手柄になる成果はそれを割り増しして評価する傾向のことだ。「ほめられたい」は何か、甘えに似た、あるいは「飴」に似た何かと考えられやすいが、そうではない。それは「正当に評価してほしい」という願望なのだ。ほめられた人はたとえ「やった!ほめられちゃった。おれってすごいんだ」というような反応よりも、「よかった、私はこれでよかったのだ」という安堵の方が反応としては大きな部分を占めるのではないだろうか? 
この自己愛的な偏重narcissistic tilt」は、次のように考えると分かりやすい。まず人は自分の手で達成したことは、それを実際に経験したという意味では、最も想像力を働かせた人ともいえるからだ。またその人は、自分の作品や達成に関して、その意味を最も理解する人間ともいえる。例えば割り箸アートで、束ねた割り箸から蛸の造形を作った人は、その素晴らしさを恐らく最も理解することが出来る立場にある。さもないとそれほどのエネルギーを制作に割かなかったであろうからだ。するとそれを労作だと感じてもらって当たり前ということになる。「素晴らしい作品だ」は至極当然の評価ということになる。結局彼は人が過剰に、あるいは方便としてほめることで、ようやく「正当な」評価を受けたと感じるはずなのだ。ただしここには例外がある。作者がその作品をいとも当たり前に、対して苦労もせず作り上げる場合を考えよう。例えば熟達したバイオリニストがごく簡単な練習曲をひくだけでも、初心者にとってはとてもまねのできないような素晴らしい演奏に聞こえるはずだ。自分の技巧に慣れ、自分にとって当たり前になってしまった人はこのような「逆偏重」も示す可能性も考えておかなくてはならない。