2017年7月15日土曜日

脳科学と精神療法 (推敲) 4

 時間が残り少なくなってきましたので、今日一番言わなくちゃいけない部分に入ります。冒頭にも言いましたように、新無意識という概念が提出されています。ニューアンコンシャス。そういうタイトルの本が出てくれたので、ああよかったと思って使えるわけですけれども、実はこれを読んでみても、ニューアンコンシャスとは何ぞや、ということは残念ながらどこにも明言されていないのです。今日お話したようなことがたくさん出てくるだけです。そこであえて絵にするとこんな感じです。フロイトの意識と無意識はかなりはっきり分かれている。意識の範囲が大きいです。この図は私が作ってみたんですけれども、新無意識は非常に広い範囲(図の赤い部分です)で、意識のエリア(上のほうの青い部分)は本当にわずかです。最近では意識はワーキングメモリーと同じだということになっているようですが、そうすると7ケタの数字、たとえば電話番号を忘れないように何度も繰返して唱えていたら、他に何もできなくなるぐらいに意識というのは狭いです。例えば昔のクジ引きで八角形の箱をガラガラとハンドルで回してポンと玉が出てくるじゃないですか。意識とはあの玉の出口ぐらいの広さだと私は思います。要するにそれ以外の大部分が新無意識であり、もっと言えば意識の部分はひょっとしたらないのかもしれない。意識があるとしたら、それは幻想だと考える人もいます。
この絵の青色の意識部分の周辺を、私はカオスの縁と呼んでいますが、ここで様々な表象が先ほどのダーウィン的なプロセスでもって浮かび上がってくる。曲にしても小説のストーリーにしてもここに浮かび上がってくると考えるしかない。 そこで印をたくさん書いて雰囲気を出しています。
さてここには欲動はどう絡んでくるのでしょうか? 欲動というものは特にないそうです。フロイトの無意識には欲動が詰まっていて、それが人を突き動かすと考えられてきた。ところが、新無意識を探しても何も出て来なくて、ただただ大脳皮質があって、それプラス基底核、辺縁系です。辺縁系がどういう役割をしているかというと、そこを刺激したらある感情や情動が生まれるという形で、それが情動や言動のアウトプットに大きな影響を与えるというわけです。
 ちょっとこれは極端な言い方かもしれないですけど、新無意識にとって、その意識野へのアウトプットを決定する際にきわめて重要なのは、報酬系と本能ということになります。我々の脳は、単なるパーセプトロンではなく、そこにそれを駆動するような報酬系が存在するのです。つまりそれが快か不快かということで人間の生き方が決まってきます。また本能は巨大なあみだくじの一部に、数多くの桁を無視して一気にアウトプットに至るような仕組みもあり、それは経験とは別に発動するわけです。
 この様に考えると、新無意識はそれぞれの自我、超自我、エスのほとんどを包含してしまいます。他方では意識はワーキングメモリー程度しかない。繰り返しますが、最近、意識の定義として心理学者たちはワーキングメモリーと同じなんじゃないかと言っています。私は最初は何の事だかわからなかったけれども、要するにコンピュータでいうとラムスペース、一時的に記憶を補完する作業用の小さな机のようなものと考えればいいでしょう。私が1994年にコンピューターを使いだしたころは、最初はラムが16メガバイトだったんですよ。ちょっと無理なことをやるとフリーズばっかりしていました。それが今やギガバイトのレベルです。ともかくもそこに一時的な記憶をためておく。それが意識だというんです。たとえば私がこうして話していても、話す内容はだいたい頭に入れてきましたが、次に何をいうかということは、その瞬間ごとにこのラムスペースで決めているところがある。ちょっと時間が押しているみたいだから、この話は省略しようとか。それ以外はあまり意識は活動せず、話の内容は無意識から降ってくるという感じです。意識の中身は新無意識で常に自動的に生産される感じです。そしてその一部はダーウィニズムによって選択される。そこに幸いにも主体性、自律性の感覚が伴うのです。ですから、ダーウィニズムでポンと出て来たものは、時々「えっ、これが僕の選択だったのか?」みたいなことになる場合がある。しかしだいたいの場合は新無意識の質が良ければ、口に出てきたことはこれまで言ってきたことと首尾一貫したようなこと、やろうとしていたことに合致しており、「これは僕の言った言葉だ」という感じを生むのです。けれども出てきたものというのは実は新無意識がサイコロを振ってそこで決定さているという要素は常にあるのです。
 もちろんこれを聞いている皆さんの中には、「そんなことないよ」とおっしゃる方もいるかもしれません。でもこの件を考えていくとそうなんです。新無意識では一貫性、プライオリティー、排他性を生み出した行動、ファンタジー、夢が生き残り、意識に上って意識によって肯定される。例えば「はい」と手を挙げた時に、あれ、自分はどうして手を挙げたんだろうみたいなことはよくあるんですけれども、それはそうです。なにしろ皆さんの新無意識が手を挙げさせているんですから。手を挙げるつもりだったというふうに考えていたんだとすると、それは自分の決定したものだと考える。
ということで新無意識が示す治療の在り方。これでどうやって治療論にもっていくかというのは、非常に悩ましいところですが、ここからが私の本音であり本題です。新無意識の取り扱い説明書はまだ存在しない。おそらく永遠に存在しない可能性がある。そうすると治療上の基本原則レシピも存在しない。精神分析でいう匿名製的な検討、中立性、受け身性みたいなものを当てはめようとしたフロイトの脳の構造というのはすごくシンプルだった。新しい無意識の概念にもとづいた場合には、これまでほどには精神分析学的な理論に執着する必要はないのではないかということです。「これまでほどには」というのは半分は意味があると思うからです。しかしむしろロジャース流のやり方にも意味があるのではないかということを考えています。要するにいろんな精神療法の共通点を探っていって、ジェネリックな精神療法ということを考えた場合、ロジャース的な考え方というのはかなり入ってきてしまうということがあります。患者への共感、治療者の側の誠実さといった要素。フロイディアンとしては非常に残念で悔しいと思うんですけど、こうなってしまう。患者の言葉が重層決定されて、ダーウィニズム的に決定される以上、それを深読みして解釈する意義はそれだけ少なくなってしまう。それには素直に患者さんの話を聞きましょうということです。
 ランバートの報告というのがしばしば出てくるのでここで紹介しますと、ランバートの1992年の報告で、精神療法はその効果の40%は治療外の要因、つまり外的な出来事、クライアントがもともと持っている強さなどが関係し、そして技法とモデルは15%。精神分析で治したとしても精神分析の技法でもって治したのは15%に過ぎない。それ以外の中で、30%に関しては受容、共感、思いやり、励まし、クライアントとの治療関係でそういったものがすごく大きな意味をもっているという報告です。治療者としては本来に立ち返るしかないんじゃないかということです。
治療の基本は患者の話に共感し、そのための明確化を進めていくこと。その差異に常に治療者の側の現実との照合が問題になってきます。患者の話を聞きつつ、それが治療者という他者からどう見えるかについての情報を提供すること。それが新無意識的な立場に立った治療の要となります。精神療法は結局は治療者と患者の双方の相互的なディープラーニングです。治療というのは2つのディープラーニングが交流を行うことです。すると質のいい交流がどうしても必要になってくるわけです。するとこちらのインパクトがどういうふうな形で患者さんの側に伝わっているかを見るということが大事です。患者さんからのアウトプットはサブリミナルなものも含めて入っているということを考えた上で、あまりその連想の細かいことの解釈はせずに全体の流れをつかむということが大事です。そうすると治療とは結局関係性、情動的な交流が意味をもつことになります。
 我々が治療がうまくいっていると感じる場合には、我々の心と患者さんの心がある意味では障壁や防衛がなく交流ができているという状態ということが出来ます。土居健郎先生は、治療というのは一種の甘えが起きている状態だとおっしゃいましたが、この見方を私は皆さんにぜひお勧めしたいです。治療がうまくいっているかどうかという時に一つ考えてほしいのは、この患者さんは私に甘えることができているのか、あるいは患者さんに対して私は甘えているのか。要するに協力して防衛的にならずに済んでいるのかということです。患者側が自分に甘えていないという時、いい意味での甘えが行われていないという時にはこちらが甘えを許容していないという部分があるというふうに土居先生は考えたんです。

 私も最近、スーパービジョンをやっていて、この人はすごくうまくいくんだけど、どうしてこの人はうまくいかないんだろう、などと考えた時に、うまくいっている人との間では甘えの関係が成立しているんだと思ってはっとしたことがありました。私はこの歳になり、しわも増えて貫禄が出てしまっている。するとバイジーさんたちは緊張なさっていることが多いようです。そこでのバイジーさんたちの治療力は、実は彼ら、彼女らが私に対してうまく甘えつつ言いたいことを言って自分を貫くことを忘れないか、ということによって決まってきます。そのような関係でこそ、有効なディープラーニングが行われるのです。以上、ご清聴ありがとうございました。