2017年7月14日金曜日

脳科学と精神療法 (推敲) 3

ところでこの夢の話ってとても面白いと思います。夢の内容というのは細かい分析をすると半分以上は意味がないというわけです。それよりは夢というのはその夢の内容から連想したものを患者さんに語ってもらうということのほうが遥かに意味がある。夢の内容そのものに入っていって象徴的な意味を探るということにはあまり意味がないと思いますが、それは上に述べたような事情によります。
 ポール・マッカートニーはイエスタデイができた経緯について、就寝中に夢の中でメロディーが浮かび、慌ててコードを探してスタジオで完成させたといいます。イエスタデイのコードというのは実は結構複雑で、私も学生時代に伴奏しようと思ってとんでもない目にあっていますけれども、さすがプロですね。夢の中にメロディーが出て来たということは、無意識にそれが作り上げられたという以外に可能性はないわけです。、ポールはあまりにも自然に浮かんできたメロディーなので、別の誰かの曲ではないかと思ってみんなに聴かせて回ったけれども、誰もこのメロディーを知らないと言われ、やっと自分のオリジナル曲だと認識しましたとも述べています。彼の音楽的才能がここに表れていると思うのですが、彼の頭の中にあったたくさんのメロディーの断片をうまくつなぎ合わされて、生成され、それが一つの曲となって芸術的な価値をもったものとしてひとりでに結晶化されたわけです。
 ただし私がこれまでに行った議論に従えば、夢の内容には全く意味がないのかと言われてしまいますが、そうではなくて、夢の中には昔あったトラウマみたいなものがそのままの形で出てくるということがあります。それは先ほど述べたダーウィニズムに従ったプロセスとは別の、生の形での体験のフラッシュバックが起きたような体験として理解できるものではないかと考えています。
 もしこの夢に現れた問題を自由連想についても当てはめた場合、次の疑問が出てきます。「自由意志は幻想なのか」。つまりそれはフロイトが考えたように患者の無意識を表現していると考えることが出来るのか、という疑問です。ここはちょっと危険なテーマなので最後に時間があったら話します。我々分析家の目指している自由意志というのは幻なのかということです。私がこうやって話しているのも、実は私はロボットで話をさせられているのではないかということになってきます。冗談ですが()
 ニューラルネットワーク理論について少しお話しましょう。脳の仕組みを解明しよう、ということで、一昔前にいろいろなモデルができました。その中で1957年にローゼンブラットという人が提唱したパーセプトロンの概念がありました。コンピュータは単純な処理を高速で行う。その能力は人間のそれを遥かにしのいでいる。一方で文字入力を認識したり、物体を認識したりという仕事はコンピュータにとって非常に複雑なものである。そのためにローゼンブラットはパーセプトロンという概念を作り上げたわけです。
 ここに絵を描いてみました(省略)。まず入力層があって、出力層があって、hidden layer, つまり隠れ層があります。そうするとある信号は例えば図に示した緑色のアイコンを見た時に、最終的にこれは優先席だとわかるためにそこに至る経路に重みづけをしていきます。つまりそれを太く、強化することになります。同じような事を様々な刺激に対して学習していきます。またたとえば耳がちょっと大きくて、目が二つあって、ひげが生えていたら猫だというふうにパターン認識ができるようになる。パーセプトロンの議論が1950年代にローゼンブラットにより提唱されて、すごく流行ったそうです。その後一時勢いがなくなったそうですが、この間のアルファー碁やディープラーニングの活躍でまた脚光を浴びるようになった。延々とこの議論は続いているということです。
 このパーセプトロンにちょうど対応するのが大脳皮質です。大脳皮質の場合、6つの層があります。そして下から情報が流れてきて、そこでいろんな情報処理が行われ、代部分の情報は上まで登らずに降りてきてしまう。だから知覚入力、感覚入力というのは大脳皮質に入ってもたいがいは意識に上らずに棄却されてしまうのですが、それはなぜかというと、新しいものが特になく、いつもの通りの情報は注意に値しないからです。そのような情報はスルーしてしまう。いつもどおりの出来事に関する記憶は、どんどん無意識に処理されていく。これは無意識に関する新しい考え方ですね。
 さて大脳皮質というのは脳のいろいろな部分で若干違ったりするんですけれども、小脳皮質の場合には3層で、その構造はおおむね画一的で、実はコンピュータにそっくりだというふうに言われています。我々の脳の中で一番計算をしてもらっているのが小脳であって、そこでは運動の熟達みたいなことに関係していると言われていたが、実はそれ以外のことに関しても、精神的、認知的な事柄についても熟達して慣れて自動化していくというプロセスの中でもすごく大きな意味をもっているということです。小脳というのは心にも影響しているんだということが言われています。
 ジェフ・ホーキンスの「考える脳、考えるコンピューター」(ランダムハウス講談社、2015年)という本を読むと、この内容をすごく考えさせられるんです。私は大脳皮質というのは一体何をやっているのかと思っていたのですが、ホーキンスが書いた中に、大脳皮質に入ってきた情報は自動的に処理されていき、感覚入力を処理する際に、予測と異なる情報だけが上位に伝わる、という先ほどの理論が書いてあり、目からうろこでした。例えば赤信号に差し掛かった車が停止する、というシーンを見ても、それは予測どおりのことがおきたというので、ほとんど意識されずに忘れ去られていく。ところが、赤信号なのに車が止まらずに交差点に突っ込んできた場合、それは予想外のこと、驚くべきこととして上位に伝わっていきます。この新しくて注意すべき情報はどこにいくかというと海馬です。つまり大脳皮質の一番の上位は海馬ということです。皆さんに、一年前の自宅から職場までの道のりを思い出してくださいと言っても全然思い出せないはずです。ところが一年前のある日の通勤中に、横断歩道で誰かが倒れていたということがあると、それだけは新しいことだから海馬に最後まで残っている。海馬はそれを記憶として保持するわけです。大脳皮質の上に立つ親分は海馬。もちろん扁桃核もあります。予想外のことが起きてびっくりしたり怖かったりしたら、それは扁桃核も鳴らすわけです。大脳皮質、小脳皮質は常にこのような形でディープラーニングを行っているのです。
 この間、○○大の学生さんにディープラーニングを知っているかと言ったら誰も知らなくて、囲碁で勝ったやつだと言っても知らなかったです。でも、精神科を生業としている人間の場合には、あれは大変なニュースです。アルファー碁はなんであれほど高い知能を備えたのか。パーセプトロンを巨大にして今起きていることを考えるべきですけれども、私はこの授業をしている時に、パーセプトロンとは別の比喩を思いついたんです。それはあみだくじです。これをパーセプトロンと思ってください。パーセプトロンというのはある意味で巨大なあみだくじにたとえることが出来ます。これがアルファー碁のあみだくじ版だと思ってください。どういうことが起きているかというと、囲碁のある局面を入力するとあみだくじを経て最善の着手がこうだ(あるいは過去に勝利に繋がる場合の着手はこうであった)という出力が出るように、あみだくじに桁、つまり横線が書き加えられていくというプロセスを想像してください。要するにこの入力の時にはこういうふうな出力ですよ、という情報を何千、何万、何百万という形で学習させると、巨大なあみだくじはこういう具合にはこう、こういう具合にはこうというように最善手を打つようにケタを増やしていく。
 人間の脳というのは結局は巨大なあみだくじとすると、人間の脳というのはコンピュータなのかということになってしまいます。そしてそこには様々な外的なファクターが加わります。例えばサブリミナルメッセージを与えられると、そこに引っ張り寄せられてくるわけです。「敵」という言葉を、スクリーンに20分の1秒以下見せると、皆さんは意識はしないんだけれども、敵対的な行動を取る、友達という文字を皆さんの気がつかないようにサブリミナルに流すと、友好的な態度を取る、という風に、直前に入ったインプットがなぜかその人の行動を決めることが起きると報告されています。そしてその人はその行動を起こした理由を知らない。不思議な現象です。サブリミナルメッセージによってもこんなに左右されてしまう。この図ではあまり説明にならないかもしれませんが、少しでも意図が伝わるでしょうか。このあみだくじの上のほうからのインプットというのは、何らかの表象や特徴です。アルファー碁はそれの囲碁に特化したものであり、実際の人間の脳は、凡そあらゆるインプットを想定していると考えてください。すると例えば動物を見て犬とわかる前にいくつかのインプットがあって、いろんな経路を通じて、最後に集約されて「ワンちゃん」となる。でも、人間の脳の場合は、単なるあみだくじではなく、ここに精神分析でいうコンプレックスや外傷記憶みたいなものがある。あるいは楽しい記憶だと引き寄せられて、外傷記憶だとそれを避けるようにして、サブリミナルメッセージみたいなものがあったりして、最終的にすごく複雑な形になる。そのアウトプットとして最終的に何が出てくるかというときに先ほどのダーウィニズムが働くわけですが、そうするとこの図には描ききれませんね。あみだくじの下のほうはそれこそ桁が出現したりいきなり消えたり、というかなりランダムな動きが生じていると言うことでしょう。臨界状況、という感じです。
 ここであみだくじ、というたとえをしましたが、もちろんこれはニューラルネットワークのことです。そして学習されるのは、それぞれの神経細胞の間のつながりの重み付け、ということですが、それを想像しにくいと考えて、あえてこのようなたとえを用いたわけです。そして人間の脳とニューラルネットワークとは同じではないことをここで示さなくてはなりません。というのも脳には大事なものがくっ付いている。それは報酬系です。私の考えでは動物が生命を維持して子孫を増やしていく中で、報酬というのがどうしても必要で、その報酬がこのあみだくじ、あるいはニューラルネットワークの入力から出力に至る上から下への流れの駆動力になっていると思います。