2017年6月9日金曜日

ほめる ④  

もう一つは自己愛の問題。これもバカにならない。子供が漢字の書き取で百点を取る。するとそこにたとえば「自分が血を分けた子だからだ(だから自分もその種の才能を持っているに違いない)」というのが一番わかりやすいであろうか。しかしもし血が繋がっていなくても、「自分の教え方がよかったからだ」「自分の育て方がよかったからだ」などと理由はいくらでもついて回る。要するに褒めることで、自分の自己愛が満たされるということだ。そんなことだっていくらでもあるだろう。私はそれがよくないとは思わないが、問題は子供が漢字の書き取りで零点を取った場合にもこれが起きるだろう、ということである。すると当然のことながら親は「自分がダメだから子供がこんな点を取ってしまった」と自分を責めて、それを耐えることが出来ずに結局子供を激しく叱ることになるのだ。したがって褒めるという行為に親の自己愛が絡んだ場合はかなり問題が生じることになる。
褒めるという問題からは離れるが、自分の子供の失敗はこれほど親の心を痛めるため、親が直接何かを教えたり、トレーナーになったりすることには問題が生じかねないだろう。ある公文の先生は、自分の子供が生徒の一人に交じると、間違えを正す時の感情的な高ぶりが尋常ではなく、別の先生にお願いすることにしているという。ただしそれでも「父子鷹」(おやこだか)のような例もあるとすれば、おそらく「同一化」による効用が勝るということだろうか。
ともかくもここで大事なのは、親が子供を褒めるにしても、その本質部分は自然な「褒めたい願望」だということである。つまり「褒めてあげてさらに相手を伸ばしてあげよう」という「野心」に由来はしていないということだ。少なくとも本質部分は。仮に子供の達成が親にとっては不満足だったり、感動を伴わなかったりする。それでも親はこう考えるかもしれない。「一応ここで褒めておこうか。そうじゃなくちゃかわいそうだ。それに褒められることで伸びるということもあるかもしれないじゃないか。」もちろんそれがいけないというわけではないにしても、私はそこには純粋さが欠けていると考える。本来の褒める行為は純粋な「褒めたい願望」を含んでいなくてはならない。いや、こう言い直そう。純粋な「褒めたい願望」を有さない人間にうまい褒め方はできないだろう。本当に人を伸ばす力を有する褒め方もできないはずだ。なぜならそこには自然さがないからである。