2017年6月8日木曜日

ほめる ③ 

さて「褒める」というテーマである。人にはおそらく他人の成功を祝福し、あるいは感動を伝えて一緒に喜びたいという願望がある程度はあり、それが相互の発達を促進するのであろう。そのような性質をある程度持ち合わせた個体が生き残ってきていると考えればいい。褒められた人はもっと褒められたいと思って頑張るようになるというわけだ。しかし私が自分の体験として説明した「褒めたい願望」は必ずしも満たされることが多くはない。そもそも私は本当に感動しないと褒めたいと思わない。しかし私の感受性は非常に限られていて、そもそも感動をすることが決して多くはない。だから私がいくら褒めることが出来る機会を逃さずに褒める努力をしても、その頻度は非常に限られていることになる。また私はある作品に出会っても、特に感動しないことの方がはるかに多いわけであるから、私はそれらの作者を誉めないという形で無視しているということになる。私が特に感動しない作品の作者に対しても、何らかの義務感に駆られて褒めたとしてもその効果は多寡が知れている。ということで「褒めたい願望」、ないしは「自然に褒める」という行為は実はあまり実際に生じることがなく、例えば子育てとか教育とか、治療という文脈で論じる「褒めること」とはあまり結びついていないような気がする。教育や治療の一環として褒めるのは、そこにことさら、意図的に、という意味が加わる。それがいけないというわけではないにしても、「褒めたい願望」にあるような純粋さは見られないことになる。
親が子を褒める
さて親として子を褒めるという場合は、独特の要素が加わる。私は親として子供を褒めたことがあるが、やはりその実体験が背景になっていることだが、そこには様々な要素が絡む。まず自分の子供の達成は、それにどれだけ感情移入をしているか、またどこまで自己愛を刺激するか、という要素がいやおうなしについてくる。先ほど「ほめたい願望」は、純粋に自分がその行為や作品を見て感動することから生まれると言った。そしてそれはそれほど頻繁に生じることではないのだ。例えば床運動の選手が「後方伸身宙返り4回ひねり」の後の着地を見事に決めたら「すごいじゃないか!」と叫んだ人も、ある1乳児が危なげな様子でおそるおそる立ち上がった姿を「素晴らしい!」などとは感じないのが普通だ。ところがそれがわが子の始めての独り立ちだとなると、これは全く異なるだろう。「すごい、うちの子はなんと10ヶ月で立っちした!」と驚喜するであろうし、ハイハイする様子から毎日追っている親にとっては、それは紛れもなく偉業に映る。「感動」はその人がそこにどれだけ感情移入しているかによって全く違ってくるのだ。

その時何が起きているかと言えば、おそらく同一化である。子供がハイハイしているとき、親はやはりハイハイしているのだ。そしてつかまり立ちしようとしているとき、親も一生懸命立ち上がろうとしている。そして立ち上がれた時の「やった!」感を親も体験している。ということは褒める、ということは自分の「やった!」感に祝福している? なんだかわからなくなってきたぞ。「褒めたい願望」はもう少し純粋なものではなかったっけ?