2017年6月7日水曜日

ほめる ② 

おそらく私は人によいニュースを伝えることが出来たという自己効力感を味わうのだろうと思う。その時私は特に自分を褒めているわけでもない。むしろ相手の喜びに「タダ乗り」させてもらうという感じである。そういう意味ではこれは愛他的というよりは、かなり自己完結的な行為である。「そういうあなたもすごいですよ」と相手に返されたら、「いや、そういう意味で褒めているのではありません。」と言いたくなるだろう。それを防ぐために、「褒め逃げ」することさえ考える。「あなたはすばらしいと思いますよ。ちなみに私はこういうものです」と自分の名刺を置いて立ち去る、ということなどアリエない。ちなみに連絡先のメールアドレスは・・・などはアリエない。それでは純粋な「褒めたい願望」ではないのだ。これを機会に相手と知り合いになりたい、という疚しい心はない。ただ伝えたいのである。
褒める喜びを味わう際には、自分が本当に相手に感銘を受けているというのはとても重要なことである。よくあるではないか。すばらしい曲を聴くと、人に伝えたくなるということが。そうすると喜びをシェアできる。もっと嬉しくなる。褒める、とはその極め付きなのだ。スポーツでpublic viewing というのがあるあろう。一人で家でテレビで観戦してもいいのだが、みんなで集まって観戦すると明らかに盛り上がり方が違う。勝ったりするとおそらく喜びは倍加する。皆それを狙って店での大画面のテレビの前に集まるのだ。
褒めるというテーマに戻る。相手から感銘を受けることが第一条件であると言ったが、私たちは実はあまり感動をすることがない。グルメ番組のように、口に入れたら至福の顔をする、などという感動は滅多にない。私たちは様々な情報にさらされているのだ。だからこそ感動というのはレアな体験である。そして自分が正直に相手に気持ちを伝え、それが相手を喜ばす、という奇跡的な事態を作ることに感動が伴うのである。
私はこの種の行為については、時々そこに義務感さえ感じる。あるチェロ奏者の演奏に感動したら、それを伝えるのはむしろ「しなくてはならないこと」という気がしてくる。ただしその演奏家のために、というわけではない。そういう意味での義務感ではないのだ。むしろ自分のために、そうなのだ。褒めないと後で不全感を味わうような気がするからだ。しかしだからと言ってそのチェロ奏者と仲良くなりたいなどという気持ちはない。言ったらさっさと立ち去るだけなのだ。あ、これさっきも言ったな。
もちろんすばらしい行動や作品を褒めることを楽しむという行為は、実は様々な事情により達成がかなわない。一つは羨望だろう。その作品が私が専門としている分野で発表され、その作者が私にとってライバル心を起こさせるとしたら、これは決して用意ではない。逆に悔しくて文句の一言も言いたくなってしまうだろう。その場合はその羨望の念が薄れるまで時間がかかり、それからやっと祝福を言うことが出来る状態になる。大体私のライバルAさんが立派な仕事をした時は、それに対して悔しいと思う私の方の認識が間違っていることになる。Aさんはこんな仕事は出来ないだろうと思っていたから、Aさんに先を越された、と思うわけである。ところがそこにはAさんが先を越さないであろうという私の想定があったわけで、それが間違っていたことが証明されたわけだ。そこで自分とAさんの関係の見直しが起きれば、素直にその人を祝福したいという気持ちにもなるだろう。ただしもちろんAさんと私との関係がそもそもよろしくなかったら、祝福したいなどとは最初から思わないであろう。そのような人の成功は腹立たしく感じるわけである。でもそのようなときにも私は「この人を祝福してみたらどうなるのだろう?」というファンタジーを持つことがある。Aさんが私の祝福を受け入れてくれるのであれば、Aさんとの関係性は全く違ったものになりかねない。