2017年6月6日火曜日

ほめる ①  

あるオトナの事情で、「褒める」というテーマで書かなくてはならなくなった。しかし「ホメル」の変換のされ方が2種類あるな。褒める、誉める、揉める、あ、これは違うか。何しろ「一般社団法人 ほめる達人協会」とか「ほめる検定」というのもあるぞ。まあここでは「褒める」で統一しておこう。またこのテーマには「日本人にとっての」という条件が付いている。まあ特別苦手なテーマというわけでもなく、むしろ書いてみたいという気もする。そこで引き受けることになった。

純粋なる「褒めたい願望」
まずは自分の体験から。私は基本的には褒めることは好きなのである。それを取りあえずピュアな「褒めたい願望」と呼んでおこう。テキトーなものだ。
褒めるのが好き、ということはおそらく褒められることも好きなのだ、と心理学者はすぐ考えてしまうが、必ずしもそうではない。褒められることが好きでないという人もあまりいないだろう。そう、褒められることはほぼ私たちの全員が好きなのであろうが、人を褒めるのが好き、というとかなり限られるのではないか。
もちろん常識的に考えれば次の様になりそうだ。「人は褒めることにより、その人は褒められることの身代わり体験をするのだ。」ちょっと聞くともっともらしいが、ほんとうにそうなのだろうか?私は基本的には「褒める」行為と「褒められる」ということは、受動的か能動的かという違い以上に異質のものと考える。「ひとに褒められたいけれど、なかなか褒めてもらえないから、代わりに人を褒める」と言うわけではないのだ。
たとえば私はストリートミュージシャンを見ていて、演奏に感動したら、「すばらしかったですよ」と言いたくなる。見事な論文を読んだら、作者に「とても感動しました」と伝えたくなる。見事な鼻のラインを持った人には、「あなたの鼻のラインはパーフェクトですよ」と伝えたくなる。それを自覚していなさそうな人には、特に伝えたくなる。しかしそれは、すばらしいと言われた作者の喜びをわがことのように喜ぶこととは少し違うような気がする。うーん、ここの部分が実に不思議だ。私は褒めて喜ぶ相手の顔を見たいというわけではない。相手がキョトンとしていたってかまわないのだ。