2017年6月4日日曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」⑪

(1)「関係論的旋回」およびそれへの批判

関係精神分析の歴史を簡単に振り返ろう。関係精神分析の動きはいわゆる「関係論的旋回relational turn」と呼ばれ、1980年代にJay Greenberg Mitchellよる著書により、事実上先鞭をつけられた(Greenberg and Mitchell, 1983)。その「旋回」の特徴として前出のMills は幾つかを挙げている(Mills, 2005)。それらは第一に、従来の匿名性や受け身性、禁欲原則への批判であり、第二に治療者が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えたことであり、第三に関係精神分析の持つポストモダニズムという性質である。
 これらのうちの第一については、ある意味では当然と言えよう。従来の精神分析で一般に非治療的とみなされていた介入、例えば自己開示などは、これが治療可能性を含んでいる以上は、関係精神分析においてはその可能性がさらに追及されることになろう。また第二については、関係精神分析は臨床家が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えたと言える。関係精神分析の分析家たちは、学会でも自分自身の心についてより多くを語り、また臨床場面でも自分たちをどう感じているかについて患者に尋ねるという傾向にある。つまり彼らは治療者としてよりオープンな雰囲気を醸しているということだろう。そしてそれは患者の洞察を促進するための解釈、という単一のゴールを求める立場からは明らかに距離を置くことになる。第三に関しては、関係精神分析における治療者のスタンスは紛れもなく解釈学的でポストモダンなそれであり、そこでは真実や客観性、実証主義などに関して明らかに従来とは異なる態度が取られている。
さてこれらの関係論の動きにどのような批判の目が向けられているのだろうか?まず非常に明白な事柄から指摘しなくてはならない。それは関係論においては患者と治療者双方の意識的な主観的体験がどうしても主たるテーマとなる。しかしそれはそもそもの精神分析の理念とは明白は齟齬をきたしている。Freudが精神分析において目指したのは無意識の探求であり、それこそが精神分析とは何たるかを定義するようなものであった。
Freudは次のように言った。「無意識こそが真の心的現実であるthe “unconscious is the true psychical reality” (Freud , 1900. p. 613)。あるいは「[精神分析は] 無意識的な心のプロセスについての科学であるthe science of unconscious mental processes(Freud, 1925, p. 70) とも言っている。意識的な体験を重んじる関係性の理論は、そもそも精神分析なのか?という問いに対しては、関係精神分析家たちは反論できないことになろう。この問題はあまりにも根本的で、そもそも関係精神分析を精神分析の議論の俎上で扱うことの適切さにさえ議論が及びかねないので、この問題は一時棚上げにし、関係精神分析に対する批判の幾つかを挙げたい。
関係精神分析に対する批判は、ほとんどは「外部」から来ていると言っていいだろう。つまり従来の精神分析な立場を守ろうとする分析家や学派からのものである。しかし例外として初期の段階での批判がまさに「身内」から生じていたことは特筆に値する。関係精神分析の火付け役となった「精神分析理論の展開」の共著者の一人であるGreenbergは、1993年にその著書「Oedipus and Beyond エディプスとそれを超えて」(Harvard University Press,1993)で、関係論が欲動の問題を十分に否定されてはいないと主張した。そして「果たして『欲動なき精神分析drive-free psychoanalysis』は可能なのか?」という根源的な問題を提起している。これは欲動と関係性という、ある意味では明確に分けることの出来ない問題について関係精神分析が対立構造を持ち込んだ以上、必然的に起きてくる議論であり、このGreenbergの著書はそれに先手を打ったと見ることもできるかもしれない。
また欧州の精神分析においては、「関係論的旋回」が分析理論における著しい退行を意味するという激越な批判もある(CarmeliBlass, 2010)。それによれば関係論的な旋回は伝統への挑戦であり、これまでの精神分析における技法や慣習を蔑ろにし、分析家の持つ権威を奪うとともに、かえってある種のパターナリズムに陥っているという。英国のクライン派やフランスのラカン派を生んだ伝統を重んじる欧州の風土からすれば、関係精神分析に対してこのようなほとんどアレルギーに近い反応が見られるのもわからないではない。
しかしより微妙な文脈で行われる批判には、それだけ注意が必要と思われる。ここでは関係精神分析に対して詳細な批判を行っているMills2005)の論文を手引きにして論じたい。このMills 関係精神分析に対する批判の中で筆者が妥当と思われる論点をひとつ選ぶならば、それはいわゆる「間主観性」の概念に関するものである。それは「精神の構造は、少なくとも精神療法の場面で扱う限りにおいては、他者との関係に由来する」The International Association for Psychoanalysis and Psychotherapyのホームページによる(http://iarpp.net/who-we-are)とする関係精神分析の方針そのものに向けられたものとも言えるだろう。
間主観性の概念は、関係精神分析においてはRobert Stolorow, Thomas Ogden, Jessica Benjamin らにより精力的に論じられている。論者によりそれぞれニュアンスは異なるが、概してその論調は存在論的であり、「体験は常に間主観的な文脈にはめ込まれている」(Stolorow & Atwood, 1992, p. 24) という理解に代表されよう。そしてこの意味での間主観性は心が生じる一種の場としてとらえられる。
Millsはこのような間主観性の概念は、それが個を埋没させる傾向にあるという点で問題であるという。そして例えばOgden (1994) の次のような主張を引き合いに出す。「分析過程は三つの主体の間の交流を反映する。一つは分析家、もう一つは非分析者、そしてもう一つは第三主体the analytic thirdである (p. 483)Mills はこれについて、「そもそも関係性が主体に影響するとしたら、一人一人の行為主体性agency の存在はどうなるのだろうか」と問うのだ。Millsはここで随伴現象epiphenomenon という概念を引き合いに出す。随伴現象とは全世紀初頭にWilliam Jamesにより提唱された概念で、心は脳という物質に随伴するものあり、物質にたいしては何の因果的作用ももたらさないという説である。「間主観性も結局は随伴現象であるが、それに対してなぜそこまでに決定的な影響力を持たせてしまうのだろうか、個人の自由、独立、アイデンティティーはどうなるのだろうか?」(p.162)というのがMillsの批判の骨子であるが、これは本質的な問題提起ともいえる。Giovacchini1999)は、間主観性論者によれば、「個というのは関係性の中にいったん入りこむと、陽炎のごとく消え去ってしまうかのようだ」といういい方すらしているという。

ちなみにここで筆者の考えを差し挟めば、この関係精神分析への批判は、「無意識が人間を支配する」というFreudの考えに対する異議に通じるという印象を受ける。無意識の重要性を前提とする精神分析を外側から批判する人々の多くは、人間の持つ主体性が無意識という装置やリビドーの影に埋没することに不安や疑義を持つであろうし、精神分析の内部にある関係精神分析の立場もそこに発している。ところが今度は関係精神分析における関係性や第三主体は単なる随伴現象であるにもかかわらず、その「装置」的な何かを感じる、というのではないだろうか。
 この関係精神分析批判とFreud批判がパラレルに考えられるという事情は、関係性のマトリックスないしは第三主体もFreudの無意識も、結局はあまりに複合的で不可知的であるという問題に帰着されるのであろう。人間は一方では脳や中枢神経ないしは生理学的な基盤に既定され、他方では他者との関係性や社会の中に埋め込まれている。両者はきわめて複雑で予想しがたい動きを示す。これらのいずれのみに焦点を合わせることは人間を総合的に理解することにはつながらない。関係精神分析がリビドー論を棄却しえているのかを問うたGreenberg と、上述の間主観性批判は、あたかもその二つの視点から関係精神分析を牽制していると考えられるのではないだろうか。