2017年6月28日水曜日

ほめる 推敲2

技法ないしは方便としてのほめること

純粋なる「ほめたい願望」について考え、そこでは実際の感動が大きな意味を持つと述べたが、実は私たちは本当の意味で感動する機会にさほど恵まれているわけではない。現代社会はいわば情報の洪水であり、私たちは毎日数多くの新しい刺激に晒されている。私たちはもはや普通のレベルでの感動を与えるべき情報には動じなくなっているのだ。一方教育者や臨床家がであう生徒や患者が生み出す作品や成果は、おそらく感動や感銘を与えるものとしては不十分であるに違いない。それでも私たちはほめるということを止めない。彼らの自己愛を支え、努力を続けるモティベーションを維持しなくてはならない。ここにそこに感動は伴わなくても教育的な配慮からほめる、という必要が生じる。これは教育的な、あるいは技法的な「ほめる」と呼んで差支えないだろう。極端な言い方をすれば、やむを得ず、「知的に」用いるべきものとなるのだ。繰り返すが、もちろんそれが悪いと言っているわけではない。ただ純粋ほめるということとの齟齬がそこに生じる。ほめるということが、教育上、あるいは社交場に用いられることが多い以上は、そこに偽りの要素が入り込みやすい。せっかく純粋な「ほめる願望」ということを論じたのであるから、それとの対比でいえば、こちらの部分はどうしても、純粋でない「ほめたい願望」ということになる。ただしこうなると願望ともいえないかもしれない。方便としての「ほめる」という言い方も浮かんでくる。
ネットを見れば、「一般社団法人 ほめる達人協会」とか「ほめる検定」とかの宣伝がある。ほめることがある種の魔術的な力を及ぼし、人の力を飛躍的に伸ばすということは実際にあるだろう。私はこれらの部分を否定するつもりはないが、しかしそれは中心部分に純粋な「ほめたい願望」を有して初めて意味を持つものだと考える。そうでないと空虚な作り物の、言葉だけの、他人を操作することを目的とした関わり、と言われても仕方がないであろう。
皆さんは水族館などでアザラシの芸を見ることがあるだろう。私はその芸そのものよりは、間断なくアザラシの口に放り込まれる小魚の方に目が行く。ほめることが検定の対象となったり、一種の技法となることには、あのアザラシの魚のニュアンスがどうしても浮かんでしまう。人を餌で操作しているという感じ。それは純粋な「ほめたい願望」を持つ人には違和感を感じさせるのである。
ただしこう述べたうえで付け加えるのであれば、「人の達成については、それを言葉で評価しましょう」(要するにほめましょう、ということ)という教えや方針には、私たちが持つほめることへの抵抗やそれへの想像力不足への反省を促すという点がある。考えてもみよう。人の作った作品や達成した成果そのものは、それを見る人によりいくらでも評価が異なるし、またその人が持つ想像力によりそれが変わってくる。人は基本的には自己愛的であるから、自分の達成にしか目がいかない。しかし日頃私たちが当たり前のように受け取っている事柄には、私たちがひとたび注意を向けることでその価値が見いだされることがある。私は家人に家事をしてもらっているが、これは少し想像力を働かせば大変なことがわかる。いつも家を清潔に保ち、気が付いたら食事が並んでいるということに驚き、感動しないのは、単にそれに慣れてしまい、それを提供する側の体験を想像しなくなっているからなのだ。「ほめる検定」が目指しているのは、それが単に技法や儀礼にとどまらず、人に心から感謝することであるとしたら、実は「ほめる」ことを方便としてしか考えていない方が浅薄で想像力が欠如していることを意味するのではないか? 先ほどのアザラシの芸だって、トレーナーの人はこう言うはずだ。「魚が持つ意味を軽視してはなりません。魚はアザラシ君と私とのコミュニケーションなのです。いつも絶妙なタイミングで好みの魚を差し出してあげることで、アザラシ君は私の愛情を感じているのです。魚はその愛の一つのカタチにすぎません。彼だって本当は魚が欲しくて芸をしているわけではありません(えー!)。そう、彼は私の手から魚を貰ってくれているんです。人間でも『ありがとう』っていうでしょう。魚はそのねぎらいの言葉とおなじなんです・・・・・。」うーん、なんかそんな気になってきた。
ともかくも、純粋な「ほめたい願望」を立てるとしたら、そこにはそうでないもの、技法としてのほめることが考えられるわけだが、この二つは実は人間の想像力というファクターを介して絶妙につながっているということを付け加えておきたいわけだ。