2017年6月27日火曜日

ほめる 推敲1

日本人にとっての「ほめる」 

はじめに
 「ほめる」とは非常に挑戦的なテーマである。心理療法の世界ではタブー視されていると言ってもいいだろう。精神分析においては、その究極の目的は患者が自己洞察を獲得することと考えられるが、ほめることは、それとはまさに対極的ともいえるかかわりと考えられる傾向にある。その背後には、洞察を得ることには苦痛を伴い、一種の剥奪の状況下においてはじめて達成されるという前提がある。
一般に学問としての心理療法には独特のストイシズムが存在する。安易な介入、安易な発想は回避されなくてはならない。人(患者、来談者、バイジー、生徒など)をほめることは一種の「甘やかし」であり、その場しのぎで刹那的、表層的な介入でしかなく、そこに真に学問的な価値はないとみなされる。
しかし目に見える結果を追及する世界では、かなり異なる考え方が支配的である。かつてマラソンの小出監督は、選手のことを「ほめてほめてほめまくる」、というような表現をしていた(要出典)が、いかに選手のモティベーションを高めるかが重要視される世界では、「褒める」ことはその重要な要素の一つとみなされる。。また動物の調教の世界などでも、報酬を与えることが重要視される一方では、叱る、痛みを与えるなどのかかわりは禁忌とさえ言われている。
実際に私たちがあることを学習したり訓練したりする立場にあるとしよう。そこでの努力や成果を教師や指導者からほめられたいと願うことはあまりに自然であろう。おそらく「ほめられることが嫌である」という人はかなり例外的であり、おそらく変わった人である。ほめられることでさらにやる気が出るし、これまでの苦労が報われることがある。ほめられた時に単にお世辞を言われたり、精神的に「甘やかされた」と感じることは少なく、むしろ自らの努力を正当に評価されたと感じるものである。
日常的に行われている可能性のあるかかわり、ある意味ではその存在理由や有効性が自明でありながら、治療者のかかわりとしては様々な議論を含むのが、この「ほめる」ことなのである。
純粋なる「ほめたい願望」
まずは私自身の体験から出発したい。私は基本的にはある行為や物事に心を動かされた際には、その気持ちをその行為者や作者に伝えたいと願う。たとえばストリートミュージシャンを見ていて、その演奏に感動したら、「すばらしかったですよ」と言いたくなるし、見事な論文を読んだら、その作者に「とても感動しました」と伝えたくなる。学生の発表がすばらしと思ったら、それを当人に伝えたい。その際に私は具体的な見返りを特に期待はしていない。もちろんそう伝えられた相手が「本当ですか? 有難うございます。」と喜びの表情を見せたら、私も一緒に喜びたいと願う。しかしそのような機会が得られないのであれば、その気持ちをメッセージで一方的に伝えるだけでもいいのである。そこで私にはこの比較的単純でかつ純粋に思える願望を、とりあえず「ほめたい願望」と呼ぶことにしたい。そしてこれは程度の差こそあれ、私たち皆が持っていて、それが「ほめる」という行為の基本にあると考えるのである。
ただしこの考えにはたちまち異論が予想される。「この願望はその他の願望が形を変えたものではないか、たとえば自分自身がほめられたいという願望から派生しているのではないか?」「人はほめることにより、相手に同一化してほめられるという身代わり体験をしているのではないか?」可能性としては否定できないが、これはむしろファンの心理に当てはまるのではないだろうか?将棋の連勝記録を伸ばして快進撃を続ける若手棋士のファンになってしまい、勝利を一緒に喜ぶというのもその類だろう。しかしその場合喜びの気持ちは単独でも生じ、相手にわざわざそれを伝えてほめてあげようとまでは思わないだろう。つまりこれでは自分が相手をほめるという能動的な行為が必要となる理由を説明できない。
また「相手をほめることで、本当は自分をほめて欲しいのだ」という可能性はどうか。しかし私はほめるときに相手から「そういうあなたもすばらしいですよ」というメッセージは特に期待していない。もしそう言われても「いや、そういう意味ではないのですが・・・・・」とむしろ当惑するのではないだろうか。先ほども述べた通り、相手を賞賛するメッセージを残して立ち去るだけでも目標は達せられるのである。
私は基本的には純粋なる「褒めたい願望」は愛他性(利他性)に派生していると考える。愛他性とは他人の幸福や利益を第一の目的とした行動や考え方である。愛他性はその純粋さや自己愛との関連で様々な議論を含むものの、私たちが他人の幸せを目的とした行動をとることがある。自分が他人を幸せな気分にしたことが喜びとなるということを全く体験したことがない人は少ないであろう。愛他性は程度の差こそあれ人が持っている基本的な感情である。ただし何の理由や根拠もなく素性のわからない他人を利することにも人は抵抗を覚えるものだ。しかしある時ある人の行為や作品に感動を覚える。それを当人に伝えることには正当な根拠があり、それが相手の喜びや満足感をもたらすのである。これが「ほめたい願望」の正体であろう。
 このことは純粋な「ほめたい願望」が生じるためには大切な条件があることを示している。それはその感動は本物でなくてはならないということだ。実は私たちは実はあまり感動をすることがない。グルメ番組のように、口に入れたら至福の顔をする、などという感動は滅多にない。私たちは様々な情報にさらされているのだ。だからこそ感動というのはレアな体験である。そして自分が正直に相手に気持ちを伝え、それが相手を喜ばす、という奇跡的な事態を作ることに感動が伴うのである。だから私は本当に感動した時は相手に伝えることには一種の義務感さえ感じる。あるチェロ奏者の演奏に感動したら、それを伝えるのはむしろ「しなくてはならないこと」という気がしてくる。それは物事に感動することが少ない私にとっては極めて希少な、逃すべからざる機会だからである。
さて以上純粋なる「ほめたい願望」について論じたが、これが生じない場合はいくらでもある。その理由の最大のものは羨望だろう。その作品が私が専門としている分野で発表され、その作者が私にとってライバル心を起こさせるとしたら、これは決して用意ではない。逆に悔しくて文句の一言も言いたくなってしまうだろう。その場合はその羨望の念が薄れるまで時間がかかり、それからやっと祝福を言うことが出来る状態になる。大体私のライバルAさんが立派な仕事をした時は、それに対して悔しいと思う私の方の認識が間違っていることになる。Aさんはこんな仕事は出来ないだろうと思っていたから、Aさんに先を越された、と思うわけである。ところがそこにはAさんが先を越さないであろうという私の想定があったわけで、それが間違っていたことが証明されたわけだ。そこで自分とAさんの関係の見直しが起きれば、素直にその人を祝福したいという気持ちにもなるだろう。ただしもちろんAさんと私との関係がそもそもよろしくなかったら、祝福したいなどとは最初から思わないであろう。そのような人の成功は腹立たしく感じるわけである。でもそのようなときにも私は「この人を祝福してみたらどうなるのだろう?」というファンタジーを持つことがある。Aさんが私の祝福を受け入れてくれるのであれば、Aさんとの関係性は全く違ったものになりかねない。