2017年6月29日木曜日

ほめる 推敲3

親が子をほめる
さて以下は各論であるが、これまでの議論を下敷きにしたい。
親として子をほめる場合は、独特の事情が加わる。思い入れだ。私自身の体験を踏まえて論じるのであるが、自分の子供の達成をどのように感じるかは、親がどれだけ子供に感情移入をしているかに大きく影響される。たとえば床運動の選手が「後方伸身宙返り」の着地を見事に決めるのを見て「すばらしい!」と感激する人も、公園でどこかの乳児がおぼつかない様子で一歩を踏み出す様子を見て特別に感動することはないはずだ。ところがそれがわが子の初めての一歩だとなると、これは全く違う体験になる。わが子のこれまでの十数ヶ月の成長を毎日追ってきた親にとっては、わが子が初めて何にもつかまらずに踏み出した一歩は、すばらしい成長の証であり、紛れもない偉業にさえ映るだろう。見知らぬ子とわが子で、どうしてここまで感動の度合いが異なるのだろうか? それは親がどこまで子供に思い入れをし、どれほど感情移入しているかによる。先ほど述べた「想像力」の問題と考えていい。私はこの親によるこへの思い入れを、「同一化による思い入れ」と、「自己愛的な思い入れ」の二つに分けて論じたい。
まずは同一化の方である。子供がハイハイしていた時は、親は自分もハイハイしているのだ。そしてつかまり立ちしようとしているとき、親も一生懸命立ち上がろうとしている。そして立ち上がり、一歩踏み出した時の「やった!」感を親も体験している。それまではハイハイしかできなかった自分にとってこれほど劇的な達成はないからである。
もうひとつの思い入れは、自己愛的なそれである。子供が一人歩きをする姿を見た親は、自己愛を満足させる可能性がある。もう少し分かりやすい例として、わが子が漢字のドリルで百点を取って持ち帰った場合を考えよう。するとそれを聞いた親の脳裏に浮かぶ様々な考えの中には、「自分の遺伝子のおかげだ(自分も生まれつきその種の才能を持っているに違いない)」が含まれているに違いない。しかしもし血が繋がっていなくても、「自分の教え方がよかったからだ」「自分の育て方がよかったからだ」「自分が教育によい環境を作ったからだ」など、いろいろと理屈付けをする。結局親はわが子の漢字ドリルの成績をほめながら、同時に自分をほめているのだ。
ここに述べた思い入れの二種類、つまり同一化と自己愛によるものがどのように異なるかは、子供がとてもほめられないような漢字ドリルの答案を持ち帰った際の親の反応を考えれば分かる。子供に強く同一化する親なら、子供がゼロ点の漢字テストの答案を見せる際のふがいなさや情けなさにも同一化するだろう。もちろん親にとっても我がことのようにつらい。同一化型の親は子供を叱咤するにせよ、慰めるにせよ、それは自分の失敗に対する声掛けと同じような意味を持つことになる。
 自己愛の要素が強い親の場合には、ゼロ点の答案を見た時の反応は、何よりもそのつらさを味わっているはずの子供への同一化を経由していない。その親は何よりも自分のプライドを傷つけられたと感じる。その親は子供により恥をかかされたと感じ、烈火のごとくしかりつける可能性がある。別のところでも論じているが、自己愛の傷つきは容易に怒りとして外在化される。それは最も恥を体験しているはずの子供に対して向けられる可能性をも含むのである。
ただしこの二種類の思い入れはもちろん程度の差はあってもすべての親に共存している可能性が高い。そしてその分だけ子供の達成あるいはその失敗に対する親のかかわりはハイリスクハイリターンとなる。ほめることは莫大な力を生むかもしれないが、叱責や失望は子供を台無しにしかねないだろう。自らの思い入れの強さをわきまえている親は、直接子供に何かを教えたり、トレーナーになったりすることを避けようとする。ある優秀な公文の先生は、自分の子供が生徒の一人に混じると、その間違えを見つけた時の感情的な高ぶりが尋常ではないことに気が付き、別の先生に担当をお願いしたが、それは正解であったという。医師の仲間では、自分の子供の診察は、たとえ小児科医であっても決して自分ではせず、同僚の医師に任せるという不文律がある。これも自分の子供に対する過剰な思い入れ(同一化、自己愛の対象)が診断や治療を行うものとしての目を狂わすということへの懸念であろう。ただしそれでも「父子鷹」(おやこだか)のように親が同時に恩師であったりトレーナーであったりする例はいくらでもある。とすれば、親から子への思い入れは子供の飛躍的な成長に関係している可能性も否定できないのだ。
ところでこれらの思い入れの要素は、最初に述べた純粋なる「ほめたい願望」とどのような関係を持つのだろうか? これは重要な問題である。いずれにせよ親はその思い入れの詰まった子供と生活を共にし、ほめるという機会にも叱責するという機会にも日常的に直面することになる。おそらくその基本部分としては、やはり純粋な「ほめたい願望」により構成されていてしかるべきであろう。思い入れによりそれが様々影響を受けることはもちろんであるが、その基本にほめたい願望が存在しない場合には、子育ては行き詰るに違いない。

それ以外にも親は先述の「方便として」ほめることも考えるであろう。本当は子供の達成が親にとっては不満足だったり、感動を伴わなかったりする。それでも親はこう考えるかもしれない。「一応ここでほめておこうか。そうじゃなくちゃかわいそうだ。それにほめられることで伸びるということもあるかもしれないじゃないか。」もちろんそれがいけないというわけではないにしても、私はそこには純粋さが欠けていると考える。本来の褒める行為は純粋な「ほめたい願望」を含んでいなくてはならない。いや、こう言い直そう。純粋な「褒めたい願望」を有さない人間にうまい褒め方はできないだろう。本当に人を伸ばす力を有する褒め方もできないはずだ。なぜならそこには自然さがないからである。