教育場面、臨床場面での「ほめる」
さて臨床場面や臨床場面(とりあえず今は一緒にしておく)で褒めるという行為はこの論文の本質部分でなくてはならないが、これまでの主張で大体議論の行き先は示してしまった気がする。もちろん治療者がほめることも、親が子供をほめるという心性から派生していると言いたい。対象(生徒、患者)に同一化しているために、あるいは自己愛的な理由から、普通なら感動しないことに感動する。しかしその本質部分は純粋なる「褒めたい願望」に由来するはずだ。そしてそこに同一化の要素が加わる。相手の行いに対する感動がそれだけ先鋭になった状況なのである。教育でも臨床でも、教育者や臨床家は生徒や患者の達成に、心の中では常に喝采を送り、「ほめたい願望」が刺激される、というのは基本であろう。というよりはこれが起きなかったら教師や臨床家としての資格は半減するのだろう。
本稿の前半で述べたとおり、ほめたい願望の純粋部分は、患者の喜びを喜ぶという愛他感情である。患者が進歩を見せる。あるいは喜びの感情を見せる。もちろん喜びの対象は患者の表層上の喜びにはとどまらない。将来きっと役立つであろう試練を患者が味わっている場合には、やはりそれも心のどこかで祝福するのだ。そしてそれは純粋なるほめたい願望を持つ親の子供に対する感情と変わりない。それを基本部分に据えたうえで、方便として「ほめること」を同時に考える。
私がこの方便としてのほめる部分が必要であると考えるのは、治療者の気持ちはしばしば誤解され、歪曲された形で患者に伝わることが多いからだ。患者がセッションに訪れるだけで精一杯であったとしよう。そしてそれを治療者にわかってほしいと願う。治療者は内容が特に代わり映えのないセッションの積み重ねに若干失望していたとする。患者が毎回来るだけでも必死だということへの顧慮はあまりない。ただスーパービジョンを受け、あるいはケースを見直し、ふと「自分はこの治療に過剰な期待を持っているのではないか?」「自分はこの患者が出来ていないことばかりを見て、できていることを見ていないのではないか?例えば以前の治療関係ではごく短期間しか継続できていなかった治療がここまで続いているということを自分は評価したことがあっただろうか?」治療者はこの時おそらく半信半疑でありながらも、こんなことを考える。「もしかしたら治療が続いていることに対しての労いを患者は期待しているのではないか?」治療者は次の回で伝えてみる。「あなたが体のだるさや意欲の減退を押して毎回通っていらっしゃるのは大変なことだと思います。」
本当は治療者はこの「大変さ」を心の底から実感していない。ただ患者の立場からはこの言葉が意味を持つのではないかということは理屈ではわかる。治療者は方便として「ほめる」のである。それを聞いた患者側はどう感じるだろうか? もし患者側が「久しぶりに、先生に私のことを分かってもらったという気がしました」と伝えることで、治療者がそれを意外に感じるとともに、自らの治療に対する考え方を再考するきっかけになるとしたら、これもやはり意味があることなのだろう。彼は純粋なる「ほめたい願望」の射程距離を少し伸ばせたことになるのだろう。