2017年6月20日火曜日

ほめる 8 (推敲を含む)

相手をほめることの喜びは、感動を誰かに伝えたいという願望とも関連している気がする。よくあるではないか。すばらしい曲を聴くと、人に伝えたくなるということが。人は喜びをシェアすることが好きなのである。スポーツでも一人で観戦するのではなく、パブリックビューイングというのがある。一人で家でテレビで観戦してもいいのだが、みんなで集まって観戦すると明らかに盛り上がり方が違う。勝ったりするとおそらく喜びは倍加する。皆それを狙って会場の大画面のテレビの前に集まるのだ。そこでは喜びを共有したいという私たちの願望が実現する。人はある共通の事柄について他者とともに喜ぶことを好む。私が誰かをほめるときは、一種の「ともに喜ぶ」ということを相手との相田で実現しようとするのである。もちろん相手の喜ぶ顔を直接見ることは出来ないなら、遠隔で、あるいは時差を設けてそれを実現するのだ。
そこで大切なことがある。その感動は本物でなくてはならないということだ。私はほめることは大好きだが、そこに感動は伴わなくても教育的な配慮から形ばかりほめる、ということは極めて苦手であるし、そこに特別の喜びは伴わない。もちろんそれは必要な場合があるが、それはむしろ「技法」に属することになる。それはむしろやむを得ず、「知的に」用いるべきものとなるのだ。繰り返すが、もちろんそれが悪いと言っているわけではない。
感動は本物でなくてはならない、と言ったが、実は私たちは実はあまり感動をすることがない。グルメ番組のように、口に入れたら次の瞬間に至福の顔をする、などという感動は滅多にない。私たちは様々な情報にさらされているのだ。だからこそ感動というのはレアな体験である。そして自分が正直に相手に気持ちを伝え、それが相手を喜ばす、という奇跡的な事態を作ることに感動が伴うのである。
私はこの種の行為については、時々そこに義務感さえ感じる。あるチェロ奏者の演奏に感動したら、それを伝えるのはむしろ「しなくてはならないこと」という気がしてくる。ただしその演奏家のために、というわけではない。そういう意味での義務感ではないのだ。むしろ自分のためになのだ。褒めないと後で不全感を味わうような気がするからだ。しかしだからと言ってそのチェロ奏者と仲良くなりたいなどという気持ちはない。言ったらさっさと立ち去るだけのだ。