ずいぶん前の続きだ。
本当に自分を知りたいと思うときの3つ目を思いついた。それは自分に漠然とした違和感が生じ、それを何らかの形で明らかにしたいからである。その場合は人はある種の不安を感じ、それを解消する意味でも何が起きているのかを把握したいというでもその場合は、自分を知りたいというよりは、何かのナラティブを得たい。あるいは説明してほしいという願望とも関係しているのであろう。なぜなら一人では解決できないという気持ちから彼らは来談するからである。するとそれに対して「来談者が自ら発見することを手助けする」というスタンスは、少なくともこの種のニーズにはあっていないということになる。救急に訪れた人に救急医は自然治癒を促進すべく食事療法のアドバイスをするだろうか。しかも解決の道が患者の心にすでに隠されているというのなら別であるが、おそらく治療者自身にもそれは見えていない。そこからはまさに共同作業が開始されるべきなのであり、治療者はそれに対して受け身的なスタンスを取ることは適切でないということになる。
ここでの考えをまとめると以上のようなものになるだろうか?
自分を知りたい、その援助をしてほしいというニーズに訪れる人に対して、おそらく従来の分析的なスタンスは意味を持つ。しかしそのようなニーズを持つ人はきわめてまれといわなくてはならない(訓練分析を受けに訪れる来談者はここでは除外して考えよう。)自分を知りたいというニーズを持つ人の大半は、それに対して治療者の積極的でアクティブな姿勢を望んでいるであろうし、治療者はそのニーズに対応しなくてはならないのである。
現代の精神分析学はある一つの大きな転換点に来ているといっていいだろう。それは意味はすでにそこに形を整えて存在するというのではなく、析出するということである。それ以前は解離しているということだ。あるいは言葉を得ていず、体験されていないということ。体験する=言葉を有する=想起出来るという点は極めて貴重なことである。