2017年6月2日金曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」⑨

3)関係精神分析の可能性と限界

最後に関係精神分析について概括し、その可能性や限界についても触れたい。私がこれまでに述べた精神分析に関するさまざまな疑問や懸念は、今でも私の臨床上の中心テーマであり続けている。しかしそれらの問題に今ではさほど悩まされてはいない。「正しい精神分析をおこなっていないのではないのか?」という超自我的な声からは、最近はかなり解放されてきている。むしろ私がこれまでに抱いてきた疑問や問題意識は生じる根拠があったのだという思いがある。
  それを教えてくれたのは先述のホフマン以外にも、精神医学と精神分析との架け橋を試み続けるBayler Collegeのグレン・ギャバードGlen Gabbard、舌鋒鋭く伝統的な精神分析理論の批判を展開するオーウェン・レニックOwen Renik、「自己の使用use of self」のシオドール・ジェイコブスTheodore Jabocs、ドナルド・ウィニコットDonald Winnicottを援用しつつ独自の「自己と対象」に関する新たな境地を開くジェシカ・ベンジャミンJessica Benjamin、そしてメンタライゼーションの議論を通して新風を注ぎ込むピーター・フォナギーPeter Fonagyといった人々である。そして彼らは関係精神分析に直接、間接に貢献し、いわば同じ空気を共有しつつ精神分析のあるべき姿を追求している。
 
精神分析の基本原則に徹することで生じるさまざまな矛盾、中立性や匿名性が内包する諸問題、患者の側に立った視点の欠如、無意識の不可知性等の問題や視点は、関係精神分析の機関紙とも言える「精神分析的対話」を紐解けば、異なる論者により繰り返し取り上げられていることがわかる。彼らが異口同音に指摘するのは伝統的な精神分析理論の限界や問題点であるが、それらは患者主権の治療を目指すというヒューマニズムに一貫して裏打ちされているように感じられる。彼らの議論はいかに過激で偶像破壊的であっても、精神分析を侵害するのではなく、逆にそれに活力を与え、新しい精神分析を構築するというエネルギーに満ちているのである。
私は関係精神分析の文献に触れることで、彼らの間にも様々な立場の相違があることも知った。先述の通り、そもそもの関係精神分析の火付け役であるミッチェルとグリンバーグは、「精神分析理論の展開」の刊行の後ほどなくして別々の道を追求しているように見える(7)。また理論的には非常に近いように思えるミッチェルとストロローは互いの議論の相違点をことさらに強調する傾向も見られる。しかし私にとってはそれらは彼らが共有する「大同」のもとでの「小異」に属するもののように思えるのである。むしろその種の議論が関係精神分析をさらに活性化していると考えるべきであろう。
ところで関係精神分析にはどのような限界があるのだろうか? あらゆる理論にはその限界が当事者により認識されていなくてはならない。その議論を欠いている理論とはそれだけですでに自己撞着や誤謬性をはらむという事情は、すでにアドルフ・グリューンバウムAdolf Grünbaum8)が四半世紀ほど前に指摘したとおりである。そしてそれは当然関係理論にとってもあてはまる。
さいわい関係精神分析自体が様々な立場を含みこんだ「アンブレラ理論」であるために、その中心的な主張、譲れない基本的な論点を同定しにくいという事情がある。ただし関係精神分析において頻繁にテーマとして取り上げられ、先駆者ミッチェルが強く主張した治療者と患者の二方向性、ないし二者性という概念は数多くの論者に共有されているように見受けられる。既に本章の冒頭で紹介したこれらの概念は、治療者と患者の主観的体験は常に相互的に影響を及ぼし、決して互いが孤立した心としては存在しないという視点を強調するが、この論点を突き詰めれば、患者(ないしは同様に治療者)の内的体験にはことごとく関係性が反映されていることになりかねないが、これはかえって問題を難しくしかねない。
たとえば治療者が患者とのセッション中に眠気を感じたとする。この場合に患者の側の問題を考えるとしたら、「眠気は結局は患者の側の抵抗が治療者に投げ込まれたものであり、投影性同一化の産物である」という考え方が成り立つだろう。しかし治療者の側に原因を求めるとしたら、たとえば「この眠気は、治療者の側のこの患者に対する抵抗に基づくものであろう。」となるかもしれない。もちろん彼個人の生活上の不摂生や服用中のアレルギー薬の副作用ととらえる臨床家がいてもおかしくない。すると二者関係に注目するということは、これらの要素がお互いに影響し合い、治療者の眠気を構成しているということになる。これは治療状況をより広い見地から検討することになると同時に、一層錯綜した複雑でとらえがたいものと見なすことになる。場合によっては結局治療状況における現実をとらえる手立ては何もなくなってしまう、と感じる臨床家がいても不思議はない。このように関係精神分析をどこまで念頭に置き、どこまで用いるかは、個々の臨床状況で常に問われ続けなければならない問題である。
この問題に関する私自身の立場はきわめて平凡で常識的なものと考えている。それは患者治療者間の二方向性という視点はあくまでも臨床上役に立つ限りにおいて用いるべきであるという立場である。患者の心に生じることがことごとく二者関係を反映しているとは、常識では考えにくいであろう。治療場面で患者が見せる言動には患者独自の病理がある程度は反映されているであろうし、生来の気質や欲動の強さも影響しているかもしれない。その意味では私は前出のグリンバーグのミッチェルに対する批判にも一理あると考える。それでも関係精神分析的な視点が意味を持つのは、治療状況において二者性への認識がしばしば治療者の前提から抜け落ちるという現実があるからだ。
実は同様の議論は古典的な分析理論にも成り立つと私は考えている。患者を前にした治療者が時にかなりの客観性発揮し、患者よりも現実を的確に見極めることもありえると思う。治療者が患者に比べて洞察力に優れ、情緒的にはるかに安定していて、患者の話を聞きながら、言外に含まれるメッセージやその無意識内容をかなり的確に聞き取ることが出来ることもあるだろう。そのような場合には治療は伝統的な精神分析理論にしたがった一者心理学の路線で治療が進んでも何ら問題はないと考える。ところが実際にはこのような理想的な治療過程はごくまれにしか生じないであろうことも私たち臨床家の多くは認識しているはずである。だからこそ常に古典的な分析理論に潜む危険性を常に問い続ける心がけが必要なのである。
関係精神分析の提示する視点は、ある意味では極めて常識的であり、かつ心の働きのリアリティを反映したものであるが、同時にかなり洗練され、それを維持するために常に知的な労力を必要する性質のものでもある。そしてその視点は、臨床家が患者を前にして感情の波に呑み込まれたり、自己愛の満足を体験したりする際に一番見失う性質のものでもあるという点は、実は関係理論を学ぶ上で明確に理解しておくべきものと考える。
本章を終えるにあたって述べたいのは、結局関係精神分析とは、個々の臨床家がそれぞれの仕方で出会い、必要に応じて吸収し、心の臨床の中で深めていくものであるということだ。今後我が国においてこの一連の理論が多くの臨床家に多く知られるようになり、それぞれの仕方で役立つものとなることを望む。