4.コフートの治療論、提供モデル、そしてホフマンの理論
上述の二つの問題意識が、後に私を関係精神分析的な視点へと近づけるきっかけとなったわけだが、これらは極めて具体的な臨床体験から発していたものであるといえる。このうち前者の「患者の視座に立った治療を追及するべきではないか?」という問題意識は、かならずしも二者モデルにしたがった関係精神分析的な視点を要請はしていなかった。治療者は常に患者の側から見える治療状況をシミュレーションし、そこでの患者のニーズを優先すべきであり、なぜならそれは治療者自身が患者の立場であればそう望むだろうからだ、というこの視点は、単純化すれば共感を重んじる立場に非常に近いことになる。そしてそのような文脈の中で私がまずはハインツ・コフート Heinz Kohut の理論に大きな関心を寄せるようになったこともごく自然なことであった。
その独特のターミノロジーや理論構成は別として、私は従来の精神分析には希薄であったものをコフートの臨床に見出したと感じた。それが治療原則よりも患者のニーズに応じることを優先するという姿勢である。結局はコフートの「患者の話を、まずはストレートに受け取りましょう」(17)という、分析的な理論を学んだものにとってはあまりにも素人的で精神分析とはほど遠いとさえ思われかねないメッセージにも、それなりに大きな説得力があった。
その独特のターミノロジーや理論構成は別として、私は従来の精神分析には希薄であったものをコフートの臨床に見出したと感じた。それが治療原則よりも患者のニーズに応じることを優先するという姿勢である。結局はコフートの「患者の話を、まずはストレートに受け取りましょう」(17)という、分析的な理論を学んだものにとってはあまりにも素人的で精神分析とはほど遠いとさえ思われかねないメッセージにも、それなりに大きな説得力があった。
ただし私の第二番目の不可知論的な問題意識が示すとおり、その共感により得られた内容が、実際に患者自身の心に生じたものであるという保障はないということも、私としては前提とせざるを得なかった。コフートは共感のことを「身代わりの内省 vicarious
introspection」と言い換えているが(11)、患者の心の内省は治療者の手によるものでしかない。しかしともするとコフートの共感の理論には、治療者が患者の心を客観的に把握し得るかのようなニュアンスが伴い、そのことがコフート理論が従来の精神分析理論と同様の過ちを犯しているという批判に曝されることとなった。
私はそのような視点をいわゆる「新コフート派」の論述を通して知ることとなった。コフートに直接影響を受けつつ、そこから新たな理論的発展を図ったストロロー Stolorow, アトウッド Atwood, ブランチェフ Brandchaft, オレンジ Orangeといった論客たちは、間主観性や「孤立した心isolated mind」の概念を打ち出し、古典的な精神分析やコフート理論の一部に再考を加えた。彼らの理論はときには哲学的であり、難解に感じることが少なくなかったが、底流には伝統的な精神分析に対する疑問をラジカルに問いただして行く姿勢が見られた。当時わが国では故・丸田俊彦 (1,14,15,25) や故・小此木啓吾が精力的に彼らの理論を紹介してくれたが、それらは彼らの理論を咀嚼するうえで大きな助けとなった。
「患者の視座に立った治療」に関する私の発想の転換はまた、いわゆる提供モデルとの出会いによってももたらされた。提供モデルとは「治療とは目の前の患者の欲しているものを、基本原則の遵守も含めて提供することである」(13)というものである。これはフロイトの「禁欲原則」に関して私が抱いていた疑問、すなわち「治療は患者ないしは治療者自身に禁欲ばかりを強いるべきものだろうか?」について一つの判りやすい回答を与えてくれた。患者は臨床の個々の文脈において、「禁欲」を必要とすることも「願望充足」を必要とすることもある。そして「禁欲原則」はその片面のみを取り出して論じたものとして理解することが出来たのである。
ただしここでも先ほどの共感と同じ問題が起きる。その時々で患者が何を必要としているかを治療者はいかに知ることが出来るのであろうか?無論ここでも治療者はそれを客観的に知りうる特権的な位置にない。そしてそれは治療者の共感能力の欠損というよりは、患者と治療者という二者関係の持つ本来の性質に由来する。治療者は人間である以上常に主観的であらざるを得ず、むしろそれを前提として「自分を用いる(10)」という発想を得ることが、より臨床におけるリアリティに接近することが出来るという理解も得られた。
他方もう一つの問題としての臨床における不可知性に関しては、私のさまざまな疑問にもっとも歯切れよく答えてくれたのがアーウィン・ホフマン Irwin Hoffman の著作(9)であった。この理論に出会い、影響を受けた経緯に関しては、私の著作「中立性と現実」 (22)で詳述したが、さまざまな臨床上の事象を弁証法的に理解し、整理する彼の手法からは大きな影響を受けた。彼の著作を通して精神分析理論には本来的にさまざまな立場がありえ、それらが生じるだけの根拠があるのだということを知ることは私自身の自信に繋がった。
ホフマンは、その主著(9)に見られるように、精神分析における伝統的な構造や儀式性と、分析家や患者の示す自発性や人間味や独自性とは、いわば精神分析における車の両輪であるという立場を取る。そして自発性は創造性へと結びつき、それは本来精神分析過程が不可知的で予想を裏切る性質を導くという点を強調する。また精神分析における構造(儀式)を守ろうとする側面と、それに伴う窮屈さやそれへの反発という、私が感じ続けていたことそのものが、精神分析の営みの中に初めから想定されていたのである。こうしてホフマンの著作を通して私は関係論的な論文や著作にも多く接することにもなった。