2017年6月12日月曜日

書くことと考えること 3


書くことの楽しさ

さて私は考えたり書いたりすることが好きだと最初に言いましたが、私たちすべてにとって、何か形あるものを作り上げることは、基本的には楽しい作業であると考えています。人は何かを構築することに、本能的な快感を覚えます。それは外の世界で何らかの作品や創造物を作り上げることにも当てはまりますし、心の中にある種の理論やファンタジーを作るのも快感です。おそらくあらゆる日常的な活動にその種の快感が含まれるでしょう。ある仕事をやり遂げる、というのも快感でしょうし、ありあわせの食材から料理を作るのは快感でしょう。それを誰かにおいしいといってもらえればさらに快感です。この場合は構築の喜びと、それを喜んでもらえるという二重の喜びを味わうことになるわけです。幸か不幸か私は食材を見ても、それで何を作ろうか、という発想に至ることはありません。これも向き不向きというものがあるのでしょう。しかし考えをまとめて文章や講演に仕立てることは比較的楽しんでやれることです。そしてその場合のテーマはしばしば脈絡もなく突然浮かんでくるものです。たとえば私は今日の講演の第三番目のテーマを「わかることはわからないことだ」とすることにしましたが、それについて歩きながら、あるいは地下鉄の中で延々と考えるのは結構楽しい体験でした。それが講演のほかの部分とどのようにつながっていくかをあれこれ考えるわけです。それとの関連で、ある芸術家のことを紹介したくなりました。





Dalton Ghetti 自身のホームページより(http://www.daltonghetti.com/index.asp
 
ここにダルトン・ゲティーという人の作品をお見せしています。彼はブラジル出身の大工さんで、現在アメリカのコネチカット州に住んでいますが、彼はたった一本の鉛筆を素材にして何時間も何十時間もその創造の世界を楽しんでいるのです。私がこのゲティーの作品をお見せするのは、彼の創作活動を行う際の楽しみや興奮を想像していただきたいからです。彼はおそらく頭の中で構想を練るところからすでに楽しんでいるはずです。私自身は鉛筆の芯を削って作品を作ろうと考えたことはありません。しかしそれでもゲティーが一本の鉛筆、特に太い芯の鉛筆に向かって「これからすごいのを作って人を驚かせるぞ!」とつぶやくときの興奮を感じ取ることが出来ます。そこに、その鉛筆が捨てられたもののリサイクルであるということが重要な意味を持ちます。つまり彼の場合、徹底的に材料費をゼロにしているということがその達成感を高めているのです。しかもその作品は全くスペースを取らないのです。
この作品がスペースをとらない、ということは実は非常に大切なのです。たとえば焼き物や割り箸アートを趣味にしている人と比べてみましょう。彼らの創作は、その素材から考えてかさばる運命にあります。彼らが作品をネット販売して裁くのでもない限り、彼の周囲の人はおそらく彼からいくつもの湯飲みや割り箸による「作品」をプレゼントされて使い道に困っているでしょう。あるいは自宅の狭いスペースに出来そこないの器とか、割り箸による乗り物とか動物の造形が所狭しと溢れることになるはずです。彼らの奥さんはそれに決していい顔をしないことでしょう。
作品作りは、かさばらないこと、材料費が安上がりであることは、それが楽しめたり、長続きしたりする重要な条件なのです。書くという作業は一本の鉛筆と、考えを書きつける紙があれば済みます。最近はコンピューターを使った執筆が一般的でしょうが、そうなるとキーボードがあれば、鉛筆の芯を削る必要もありません。もっと若い世代はスマホに「書いて」いるという話も聞きます。それこそ寝転がって文章が書けるわけです。もちろんお勧めはしませんが。また書く作業が電子化されることで、作品はいよいよかさばらなくなってしまいました。フロイトも自分が一生涯かかって書いたすべての手紙と論文が、USBメモリーに入ってしまうことなど想像も出来なかったと思います。
私はさらに書くという作業をできるだけ楽しくおこなうようにしています。まずは好きなことしか書かないことにしています。もう書いたことのあるテーマについての執筆依頼を受けたら、タイトルを微妙に変えて、これまで書いたものの続編という形にしてしまいます。あるいは与えられたタイトルを許されるギリギリまで変えて、今書きたいと思っていたことに近づけます。もしそれも出来ないなら、断ってしまうこともあります。しかし不思議なもので、たいていは依頼された論文と、今関心を持って書きたいと思っていたテーマの間に一種の補助線が頭の中で引かれます。例えば自己愛の論文を集めて本にしようと考えるときに、トラウマ関連の論文の依頼があれば、「自己愛トラウマ」というテーマで書くという風に。こうして依頼論文を「今書きたい論文」にすり替えてしまうことができます。
 もう一つ心がけているのは、その気になった時にしか書かない、と決めているということです。でもそうなると一向に作業が進まなくなってしまうかもしれませんので、少なくとも一日一回、そのテーマについて、いかに気が進まないとしても三行は書くことを自分に課しています。そして文章のうちのどの部分を書いてもいいことにします。最後の考察でもいいし、症例部分でもいい。これは絵に例えるならば顔の目の部分を描いたら、次の日はいきなり背景の景色に行ってしまうようなものです。私は非常に飽きっぽいので、こうやるしかありません。ただし全体のつながりは意識しつつ描いていきます。つまり漠然とした全体像が徐々に少なくとも頭の中では出来上がっていかなくてはなりません。あとは書きながら考え、考えながら書く。書くことと考えることは相互的な作業です。そしてよい論文とは、タイトル、前書き、キーワード、文献考察、すべての部分が一本の線につながっているものであるということをいつも念頭においています。これはこのように書かないと一つのゲシュタルトとして読者の脳に取り込まれないからです。
ちなみに最近の私が執筆活動をするうえで最大に活用しているのは、ブログです。これは人に読まれることを考えず、ただアリバイとして書いているわけですが、これでもかなり励みになります。

わかることとは、もう一度不可知に直面すること

書くことと考えること、というテーマで取り留めの無い話をしていますが、結局考えることで私は何を目指しているのでしょうか? 私は人間の心の何たるかをわかりたいのでしょうか? わかってどうするのでしょうか? 実は最後までわかってしまうのは、私にとっては不都合なのだろうとおもいます。もう考えることがなくなってしまうと、考えることが趣味の私としては困ってしまうというわけです。しかしうまくしたもので、人の心についてわかるということは、さらにわからないことに出会うということでもあります。わかるということは、ひとつの地点に到達したという感覚を生むと同時に、そこの先に広大な不可知を示してくれるのです。またそうでなくてはならないでしょう。最後にこの点についてお話ししたいと思います。
書くということはいわば建物を構築するということです。すでに述べたとおり構築するとは形式を整えることでもあります。特に芸術作品はそうですが、人に読んでもらうためのもの、学術的な体裁をとるものも同様です。人にわかってもらうためには、起承転結がしっかりしていなくてはなりません。そして趣旨が一貫していなくてはなりません。基本的な主張は論文を通してブレてはいけないし、もしブレたり矛盾したことを主張するのであれば、それが計算されたものでなくてはなりません。
 特に症例を書くときなど、沢山のものを切り落として書いていくことになります。それは多くの聴衆や読者に伝え、わかってもらうためには避けられない道です。先程のケースでは、Mさんがいかに恥の感情をめぐるトラウマや葛藤を抱えていたか、というテーマで書いていくわけですが、その論旨を進めるために、様々なものを切り捨て、張り合わせることになります。するとそれはもとの生きたMさんとは異なる、半ば死んだような人工物になっていきます。現実のMさんは言葉で描こうとすればするほど、そのために掴もうとする指の間をすり抜けていくところがあります。しかしその指に引っかかった分だけをつなぎ合わせることでしか、私たちは人に伝えることが出来ません。その一方で現実の血の通ったMさんはそれとは無関係に生き続けるわけです。おそらく臨床論文をお書きになる皆さんもそのような体験を必ずお持ちだと思います。
私はMさんに関して恥の文脈で理解しようとしていましたが、彼はある日ファンタジーを語りました。それはある日仕事から帰ると、一家が惨殺されていたというものです。その時Mさんは衝撃とともに、家族から開放されたという一抹の安堵感を覚え、今度はそれに対する激しい罪悪感にさいなまれたということでした。こうしてMさんは深刻な罪悪感をも体験していることがわかったのですが、それを恥の文脈で書くことは混乱を招くと思い、その部分には触れずに書いたのが、先ほどお話しした恥に関する論文でした。その意味ではある症例について書くということは、それでは十分に表現しきれない患者さんのリアリティに直面することでもあります。そしてそれが次の、恥と罪悪感との関係についての論文につながりました。
いつか土居健郎先生が、ある学会発表の後に声をかけてくださったことがあります。「いい発表は、最後に白黒のはっきりした結論が出ないものだよ。君の今の発表の場合、………。」そのあと土居先生が「結論がはっきり出ていないからよかったよ」か「結論がはっきり出すぎていたね」のどちらだったかを覚えていません。おそらく後者のお叱りの方だったと思います。
要するに一つのことを表現することは、同時にそれ以外を切り捨てることでもあります。一つのことを表現するときには、それ以外の何千、何万のことを言わないという選択をしているわけです。ですから読む人が読めば、切り取った跡の悲鳴が伝わっていく筈でしょう。書き上げたときには書ききれなかった言葉が横に積み上げられていることを、感じる人は感じているのです。そしてその意味で、あることがわかり、それを主張したということは、新たなわからなさに直面することなのです。少なくとも書いた当人は形を整えることで、自分がいかに多くを切り捨て歪曲したかをわかっている。またそうでなくてはなりません。
私はここのところを皆さんにわかって欲しいので、盆栽の例を出したいと思います。盆栽が美しいと評価されるためには手が加えられなくてはなりません。盆栽の品評会に、どこかに生えていた木をぽんと鉢に移して持ってきても、誰もいいと思わないでしょう。それは余計な枝や葉が出ていて、形式としては整っていず、要するに美しくないからです。盆栽は手が加えられることで、隅々が全体に対しての部分という意味を持ち始める。しかしそれは全く人工的なものであってはなりません。今流行の3Dプリンターで精巧に作られたプラスティックの木ではいけないのです。もし品評会で一位になった盆栽が実はイミテーションだとわかれば、大スキャンダルになってしまいます。それは自然から切り出したものに手を加えられたものでなくてはなりません。そしてそこに切り落とされた断端がなくてはなりません。そうでないと、それが現実であって現実でないという矛盾が生じず、要するに面白みがなくなるのです。
実は症例報告もそうで、それがもと現実から切り出された素材でない限り、そもそも命がこもっていないのです。しかし伝わったと思えた瞬間にその症例は言うのです。「私の本当の姿は少し違いますよ。」それを症例報告する側も、聞く側も同時に体験しつつその症例に聞き入るということなのでしょう。だから「美しい症例」「感動的な症例」は、それだけ人の手が加えられたものということは確かなのでしょう。
話がそれましたので、最後に「わかることとは不可知にさらされることである」、というテーマに戻ります。要するにわかりたいためには、わからないことに耐え、ある意味ではそれに楽しめなくてはならない、ということでもあると思うのです。 私たちの中にはわからないことの中に放り出されることの快感を覚えるという部分があるのでしょう。松木邦裕先生の講演に出てくる詩人ジョン・キーツの言葉 ”negative capability”とは、結局人の思考の豊かさは不可知性に伴う快感に支えられていると私は考えています。そして世界が不可知である限り、一生考え続けても決して考えるテーマは尽きません。ゲームだったら結局最高レベルに行きついてゲームオーバーになるのでしょう。しかし考えることにゲームオーバーはありません。エンドレスなのです。これは非常に有難いことです。
以上、書く事と考えることについてのお話にお付き合いいただきました。ご清聴ありがとうございました。