2017年6月11日日曜日

書くことと考えること 2

精神分析との出会い

そのような私が若い頃、半ば宿命的に出会ったのが精神分析理論です。一目ぼれといった状態でした。あるいはもともと結ばれる運命だったといえるかもしれません。ただし私はフロイトの理論に惚れたというよりは、精神を分析する、という考えそのものに惹かれたというべきでしょう。
かねてから言っていることですが、精神分析理論は人の心を探求する人間が一度は魅了されても不思議はないと私は考えています。精神科医としての私の研修先は通称「赤レンガ病棟」という施設でしたが、そこに当時静岡大学の助教授をしていらした磯田雄二郎先生が、月に一度いらして、私たち研修医に精神分析の手ほどきをしてくださいました。私は研修の一年目でカール・メニンガーの精神分析技法論の原書に出会ったわけですが、おそらく短期間にあれほど耽溺した本はなかったと思います。私のその体験は26歳の時のことだったので、それからのおよそ十数年間は、つねに分析理論についてあれこれ考えながらの生活であったと思います。その最初の私の姿勢は、とにかく分析理論を学ぶこと、そしてわからなかったり現実の症例とうまく合わなかったりするように思える点は、ことごとく私の経験や知識が不足していることに原因があると考える、というものでした。そして増々本格的な分析の訓練を受けることに必要性を感じたわけです。実際にアメリカに1987年に渡ってからしばらくは、分析理論を吸収する時期で、途中からは分析と現実の臨床を徹底的に照合する時期ということになったわけです。
ただし私が精神分析理論を学びながら常に感じていたのは、それがとても理屈っぽくて難しいということでもありました。日本精神分析学会の学会誌である「精神分析研究」を読んでも、難しいことばかり書いてある。フロイト理論の解説書を読んでも、たとえば「現実神経症」と「精神神経症」などの分類あたりから、何の事だかわからなくなります。その分類の深い意味を知ったのはずいぶん後だったのですが、そのころは精神分析の理論が飲みこめないのは自分の努力不足だと考え、何度か諦めかけたくなる自分を叱咤激励していました。しかしそれでも、例えばフロイトの女性におけるエディプスコンプレックスの理論など、どうも臨床と結びつかない気がしてすぐ忘れてしまう、という問題に悩まされました。こうして私の長い精神分析を見極める旅が始まったのですが、それが結局17年間のアメリカ生活の最終目的だったわけです。
私の精神分析理論とのかかわりはすでにいろいろなところに書いていますが、考えること、書くこととの関連で再び触れておきたいことがあります。上記のように私は精神分析理論の難しさに何度も音をあげたくなったわけですが、いくつかの素朴な臨床体験を文章にしてみるという試みも行っていました。それはたとえば、「分析においては匿名性が大切だということになっているが、治療者の自己開示にも治療的な意味がある場合があるのではないか?」とか、「精神分析には、恥の感情がほとんど扱われていないのではないか?」といったことでした。
その恥の問題についてですが、米国の精神科でちょうどレジデントとして働き始め、精神療法の患者さんとして持ったMさんが、この問題を持っているようでした。彼は大男でありながら、私の前でいつも目を伏せ、私の視線を避けているようでした。最初私はMさんが不機嫌だったり怒っているのではないかと思いましたが、どうやらそうではありません。彼は大きな施設の警備員といういかにも男性的な仕事についていたのですが、それに似合わず何かに恥じ入り、自分にまったく自信がなさげでした。私は注意深くMさんのこれまでの経歴を聞いて行ったのですが、彼は自分の恥ずべき過去について、いつも辛そうに話していました。私は彼の心を占めている感情は何かと考えましたが、最初はつかめませんでした。彼は何かに恥じているようであり、私の前でもそうでした。しかし白人の大男が、小柄で言葉のおぼつかない日本人の私に対して恥じ入るということが感覚としてつかめませんでした。しかし話を聞いているうちに彼は父親からいつも無視され、出来の悪い息子だという扱いを受けていたという話をするようになりました。私は羞恥心や恥ということを研究テーマの一つにしていましたから、精神分析的な治療において恥が占める役割について考えるようになりました。Mさんはまさにそれを地で行っているようなところがありました。
ところがそのMさんがあるときこんな話をしました。小さいころ、盲腸の手術のために手術室に入る前に、皆がベッドの自分を見下ろした時、Mさんはとても満足して、注目されている喜びを感じたというのです。恥の病理を持っていたはずのMさんには、同時に人に見られたい、注目されたいという強い願望があったわけです。そこで恥と自己愛という問題が一つのテーマとして浮かび上がりました。それと同時に精神分析の文献にはどうして恥について書かれたものがほとんどないのだろう、とますます不思議に思うようになりました。それは私にとってはごく自然な発想でしたので、思い切って論文にして、「精神分析研究」に投稿してみました。1990年代の前半のことです。すると当時の「精神分析研究」の編集委員の先生方はよほど寛大だったのか、それが原著論文として採用されたのです。 
それをきっかけに、精神分析を学んだり実践したりするうえで不思議に思ったり新たな発想だと思えたことをテーマに論文を書いて行きました。それらはたとえば、「あれ、自己開示ってそんなに悪いことじゃないのではないか? タブーだとかずっと言われているけれど、時と場合には治療の重要な位置を占めているのではないか?」とか、「恥には罪悪感もそこに深く絡んでくるが、精神分析理論にはそのこともあまり書かれていないようだ」とか、「トラウマの問題をフロイトはあまり扱っていないと思ったら、扱っている部分もあるんだ」とか、「解離の問題はそれこそ精神分析では扱われていないな」というように気が付いたことをもとに原著論文を書いてきました。それらは「治療者の自己開示」、「続・治療者の自己開示」、「精神分析における恥」、「精神分析における恥その(2)」「精神分析における恥その(3)」「精神分析における愛他性」、「解離性障害の分析的治療」、その続編などであり、私は気が付くと10編以上の原著論文を「精神分析研究」に掲載していただくことになりました。その上1995年には学会奨励賞(山村賞)をいただきました。「精神分析研究」誌は私にとっての大恩人だったのです。
しかしこれは今から考えてもある意味では驚くべきことでした。「精神分析研究」に原著論文として発表することがいかに難しいかは、私がのちに編集委員を務めるようになって分かったことです。ハチドリはその羽ばたきが自分の体を支えられないと知った途端に飛べなくなる、という都市伝説がありますが、わたしも原著論文は簡単に書けないということをもし知っていたら、途端に投稿できなくなっていたと思います。無知とは恐ろしいものですね。その頃は受理する基準が甘かったのかと思いますが、当時でも「精神分析研究」に掲載される、私のもの以外の論文は読んでも難しくてチンプンカンプンでした。でも私は精神分析の理論を知り尽くす必要など決してなく、私なりの視点で精神分析と関わっていいのだ、ということを理解したのです。
当時私はアメリカで、自分の日本語アクセントの強い、圧倒的にボキャブラリーの貧弱な私でも精神科医としてやっていけるんだ、という体験を持ち始めていたので、私にとってはこの「自分のままでいいんだ」という体験は仕事の上でも同時に起きていたことになります。

ともかくもこの様な形で精神分析と関わるようになったために、私には常に「本流にはいない」という負い目があります。それは今述べたような私の論文を書く態度にあるのです。私は分析の理論は難しくてよくわからない。しかしこの臨床体験なら難しい本を読まなくてもわかるし、論文にも出来そうだ。何しろ生身の患者との間でありありと体験できていることなのだから。そしてその論文を書き上げる上で読む本なら、それなりに読む気にもなれるし、逆にその路線で文献を探すと、どれが使える文献か、使えないかが見えてくる・・・。そのようにしてこれまで来たのです。