2017年6月25日日曜日

ほめる 13


ここに述べた同一化と自己愛の要素が異なることは、子供が客観的にも褒められないような結果を持ち帰った際の親の反応だろう。子供に強く同一化する親なら、子供がゼロ点の漢字テストの答案を持ち帰ることへのふがいなさがよくわかる。もちろん我がことのようにつらい。叱咤するにせよ、慰めるにせよ、それは自分の失敗に対する声掛けと同じということになる。
自己愛の要素が強い親の場合には、零点の答案を見て自らのプライドが傷つくが、それは第一につらさを味わっている子供自身のつらさへの同一化を経由していない。実際の子供の気持ちは二の次である。親は子供により恥をかかされたと感じて烈火のごとくしかりつける可能性がある。別のところでも論じているが、自己愛の傷つきは容易に怒りとして外在化される。それは最も恥を体験しているであろう子供に対して向けられる可能性をも含むのである。
いずれにせよ親は子供に対して同一化の、そして自己愛的な対象という二つの見方を程度の差こそあれ持つ可能性がある。そしてもちろん、親が子供をほめる(あるいは叱責する)ということは、ハイリスクハイリターンな作業となる。それは莫大な力を生むとともに、子供を台無しにしてしまう可能性もあるのだ。そして後者の可能性が実質的に前者を上回るため、自分の子供の失敗は親が直接子供に何かを教えたり、トレーナーになったりすることには問題が生じかねないだろう。ある公文の先生は、自分の子供が生徒の一人に混じると、間違えを見つけてただす時の感情的な高ぶりが尋常ではなく、別の先生にお願いすることにしているという。ただしそれでも「父子鷹」(おやこだか)のような例もあるとすれば、おそらく「同一化」による効用が勝るということだろうか。
医師の仲間では、自分の子供の診察は同僚の医師に任せるという不文律がある。これも自分の子供に対する過剰な思い入れ(同一化、自己愛の対象)が診断や治療を行うものとしての目を狂わすということへの懸念であろうか?
ただしこれらの思い入れは、最初に述べた純粋なる「ほめたい願望」に本当に抵触するのか、というのは重要な問題である。いずれにせよ親は子供と生活を共にし、ほめるという機会に直面することになる。おそらくその基本部分としては、やはり純粋な「ほめたい願望」により構成されていてしかるべきであろう。