2017年6月24日土曜日

ほめる 12

親が子をほめる
 さて親として子をほめる場合は、独特の事情が加わる。私自身の実体験から来ていることだが、自分の子供の達成をどのように体験するかは、そこに自分がどれだけ感情移入をしているかに大きく影響される。たとえば床運動の選手が「後方伸身宙返り」の着地を見事に決めるのを見て「すばらしい!」と感激する人も、乳児がおぼつかない様子で立っている様子を見ても特になんの感動もわかないだろう。ところがそれがわが子の始めての独り立ちだとなると、これは全く違う体験になる。子供の日々の成長を追ってきた親にとっては、初めて何にも掴まらずに踏み出した一歩は紛れもない偉業に映るだろう。そこで覚える「感動」には、親がどこまで子供に同一化し、どれほど感情移入しているかが大きくかかっている。子供がハイハイしていた時は、親は自分もハイハイしているのだ。そしてつかまり立ちしようとしているとき、親も一生懸命立ち上がろうとしている。そして立ち上がれた時の「やった!」感を親も体験している。それまではハイハイしかできなかった自分にとってこれほど劇的な達成はないからである。親がわが子の達成には特別に敏感に反応し、心の底からそれに感動するとすれば、それには親の子供への同一化という特殊事情が関係している。ただしこの子供の達成への感動は、それがかなわなかったときの親の失望や落胆をも同様に生みやすいことは当然である。

 親が子を褒める際にもう一つ深くかかわってくるのが自己愛の問題である。これは今述べた同一化の問題と深く絡んでいるが、基本的には別の問題として捉えるべきであろう。たとえば自分の子供が漢字のテストで百点を取る。するとその時に浮かぶ様々な考えの中には、「自分の遺伝子のおかげだ(自分も生まれつきその種の才能を持っているに違いない)」が含まれていることが多いだろう。しかしもし血が繋がっていなくても、「自分の教え方がよかったからだ」「結局は自分の育て方がよかったからだ」などと理由はいくらでもついて回る。そしてそのいい成績をほめるときには同時に自分をほめている、あるいは自慢していることになる。要するに褒めることで、自分の自己愛が満たされるということだ。