2017年6月23日金曜日

ほめる 11

純粋ならざる「ほめる」こと―技法としての「ほめる」こと
さて純粋なほめたい願望を論じたということは、同時にその日純粋な部分を考えることにもつながる。そしてもちろんそれはあるだろう。相手の力を延ばすための「ほめる」、処世術としてのほめる、が当然ある。ネットを見れば、「一般社団法人 ほめる達人協会」とか「ほめる検定」とかの宣伝がある。ほめることがある種の魔術的な力を及ぼし、人の力を飛躍的に伸ばすということは実際にあるだろう。私はこれらの部分を否定するつもりはないが、しかしそれは中心部分に純粋な「ほめたい願望」を有して初めて意味を持つものだと考える。そうでないと空虚な作り物の、言葉だけの、他人を操作することを目的とした関わり、と言われても仕方がないであろう。
どうしてほめてほしいのか?
さてこれまではほめる、という側の議論であったが、ここでほめられる側の心理についても検討しておきたい。なぜほめられたいのか? 「ほめられたい」は何か、甘えに似た、あるいは「飴」に似た何かと考えられやすいが、そうではない。それは「正当に評価してほしい」という願望なのだ。ほめられた人はたとえ「やった!ほめられちゃった。おれってすごいんだ」というような反応よりも、「よかった、私はこれでよかったのだ、本当に分かってもらえた」という安堵の方が反応としては大きな部分を占めるのではないだろうか? 人は自分のことは明らかにひいき目にみる。しかしそれはより正しくそれを評価している、ということでもある。他の人がその人の成果を評価しない一つの最大の理由は、それに関心を向けない、他のことに忙しい、というものである。つまり評価をしようにも、それを評価するような立場に自らを置いていないということなのだ。