2017年5月7日日曜日

未収録論文 ①

執筆依頼に応じて書いているうちに、どこにもまとめていない論文がたまってくる。そこでそれらをまとめて出そうと画策している。いずれもこのブログで書かせていただいた論文だ。以下は小此木先生が亡くなって10周年、つまり2013年に開かれた際に読み上げた論文だ。

小此木先生の思い出


 謦咳に接する、という言葉がある。相手が咳払いをした際にそれが聞こえる、つまり身近に接するという意味だが、たいていは目上の存在に対して用いる言葉である。私は小此木先生の「謦咳に接する」チャンスが幾つかあった。彼がアメリカにいらした時などは、車に乗り合わせることが多かった。隣に座ることが出来るのだ。シカゴの町をドライブしていた時だ。小此木先生が突然コトンと寝てしまうというのに遭遇することもあった。
 小此木先生との出会いは、1983年からの精神分析セミナーへの参加がきっかけである。私はその時3期生であった。つまりおそらくは1981年にセミナーが始まって、3年目というわけである。人数も10人程度だったと思う。藤山直樹先生、島村三重子先生、柘野雅之先生、佐伯喜和子先生といった先生方と同期である。きっかけは、その時大学の精神科で精神分析の勉強会を主催なさっていた磯田雄二郎先生に、精神分析を本格的に学びたいと相談したことである。すると先生が「それならオコさんに電話してみるよ。」と気軽に応じてくれたのだ。オコさん、とは先生の愛称である。磯田先生は今でもご活躍中であるが、オコさんに夜中に電話をするというのは何と度胸があるのだろう。と言ってもオコさんは夜中に最も活躍するというのは一種の都市伝説化していた。だから夜中でないとつかまらないということがあったのだ。

      (長いので、以下略)


オカノ君、オカノ君と言っていただけるようになったのは、セミナーに出始めてからである。特別私が出来が良かったわけでもなんでもない。今考えると精神科医で精神分析に興味を持つ人はある意味で貴重な存在なのである。私も藤山先生もその立場だったので、もちろん藤山先生も藤山君、藤山君、である。でも私の印象では島村三重子先生が最も小此木先生を始め同期生の期待を集めていたと記憶をしている。小此木先生はその頃50代の前半、もっとも脂が乗り切っていた時期といってもいい。その頃先生は慶應の精神分析グループを率いておられ、まさに日本の精神分析をしょって立つという立場におられた。当然沢山のお弟子さん達に囲まれ、私のようないわば部外者が先生に顔を覚えていただけるだけでも幸運だったわけである。