2017年5月8日月曜日

未収録論文 ②

こんなのもあったぞ。

精神医学からみた暴力
(児童心理 69(11), 909-921, 2015-08 金子書房)
                 
暴力や攻撃性は本能なのか?

暴力は一向に私たちの社会から消えてなくならない。地球上のあちらこちらで不幸な殺戮が繰り返されている。東西の冷戦が終焉したかと思えば、局地的な紛争はむしろ頻発している。テロ行為も頻繁だ。米国では発砲事件が、銃のない日本でも殺傷事件が頻繁にメディアをにぎわしている。
 しかし人が人を殺める、暴行するというニュースが絶え間ない一方では、その頻度や程度はおそらく確実に減少している。古代人の遺骨を見る限り、男性の多くが他殺により世を去っていたことがうかがえるという。(← 何しろ見つかった頭蓋骨に、ボコッと穴があいていることが多いらしい。こん棒で撲殺された跡、というわけである。)国家の統治機構が備わり、民主的な政治体制が整う前には、人が人を害するという行為はその多くが見過ごされ、黙認されてきた。(非民主的な政治体制では国家による人民の殺害こそより深刻だろう。現代社会においてすら、その例の枚挙にいとまはない。)加害行為の頻度の減少は、文明が進み人間の精神が洗練されたというよりは、むしろ個々の犯罪が公正に取り締まられ、DNA鑑定や防犯カメラなどの配備により犯人が特定される可能性が高まったのが一番の原因ではないか?
 私が以上のように述べれば、「人間にとって暴力や攻撃性は根源的なものであり、本能の一部である」と主張していると思われかねない。しかし私自身は、暴力や攻撃性は人間の本能と考える必然性はないという立場をとる。暴力行為が一部の人間に心地よさや高揚感をもたらし、そのために繰り返されるという事実は認めざるを得ない。ところがそれは暴力が生まれつき人間に備わったものであることを必ずしも意味しない。一部の人の脳の報酬系は、暴力行為により興奮するという性質を有するために、それらの行動を断ち切ることが難しいという不幸な事実が示されているにすぎないのだ。
 このうち一部の暴力は、その根拠が明確であり、納得もしやすい。例えば他者からの攻撃を受けた際に発揮される身体的な暴力などだ。これは防衛本能の一部として理解されるべきであろうし、そこには正当性すら見出せそうである。しかし暴力は時には正当防衛を超えて過剰に発揮されたり、触発されることなく暴発して、罪のない人々を犠牲にしたりする。私たちが心を痛めるのは、この過剰な、あるいは見境のない暴力行為なのである。「なぜこのような残虐な行為をするのだろうか?」「原因は何なのか?」「再発を防ぐ方法はあるのだろうか?」と私たちは途方に暮れる。そして同時に心の中で次のような疑問を抱くかもしれない。「もしかして私の中にもこのような怒りや暴力が潜んでいて、いつかは爆発するのだろうか・・・・・」。この恐れもまた決して侮れないのだ。
     (長いので、以下略)