2017年5月29日月曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」⑤ 

(2)関係精神分析へと向かった個人的な背景

1.           留学前の体験

本章の後半は私が関係精神分析へと向かった個人的な経緯について述べたい。端的に言えば、私が精神分析理論を学び、自分なりに吸収する過程で関係精神分析は必然的に出会い、また必要としていた理論であった。ただしこの経緯については、これまでに新しい精神分析理論1,2においてかなり触れたことでもあるので、その概要を述べるだけにとどめたい。
私が20年以上も前に精神分析を本格的に学ぼうと考えたのは、精神分析が精神療法の中でも最も洗練されているものと認識していたからである。そしてそのために開始した精神療法のトレーニングは、関係精神分析とはかなり異なる立場を前提としたものであった。具体的には、当時開始されて間もなかった慶応の精神分析セミナーで主としてフロイトの治療原則や初期の対象関係理論について学び、その内容を理解することに努めた。また出身大学の精神科の勉強グループでフロイト著作集を抄読し、カール・メニンガー Karl Menningerの「精神分析技法論」(1958)を熟読した。私はそこに描かれている転移や退行の概念および受身性、匿名性、禁欲原則の基本原則を実に整合的で説得力があるものと感じた。もう20年以上も前の話であるから「時効」であろうが、メニンガーの「精神分析技法論」を手にした次の週には、精神科外来の診察台をカウチに見立てて、外来患者に自己流の「自由連想法」を試みたほどであった。 
私はその後正式なスーパービジョンのもとに精神療法のセッションを持ち始めたが、そこでは受身性を重んじ、私から語りかけることは極力控えることで、患者に出来るだけ自由な連想を促した。セッションには沈黙が流れ、多少なりとも居心地が悪かったが、それが自由連想法であると理解していた。時にはその沈黙に促されて患者が語り出すことで治療が展開し、新しい局面が開けたと感じたこともあった。ただし患者によっては私の非介入の方針に戸惑い、結局ドロップアウトしたり、逆に治療者の私に人間としてのコミュニケーションを求めてきたりする場合もあり、その際の対応に戸惑うことも少なくなかった。
ある患者との最終セッションに、その女性の患者が「先生と最後に記念写真を撮らせてください!」とカメラを取り出したことがあった。私がどのように「中立性」を示そうかと戸惑っているうちに、通りかかった看護師がシャッターを切った。後にもらった写真には、笑顔の患者さんの横にこわばった顔の私が映っていて、「これじゃどちらが患者かわからないね。」と同僚にからかわれたことを覚えている。この写真は、フロイトの原則に従った治療を続ける上で私が感じていた迷いや戸惑いを典型的に示していたといえる。それと同時に明らかなのは、その時の私は、治療原則をいかに守るかに気を取られ、私との最後のセッションの思い出を残そうとする患者の気持ちを顧慮する余裕をほとんど持てないでいたということである。
後から考えると、通常の精神科外来での精神療法においては支持的な要素が多く必要とされるという現実を考えれば、私のこの体験は無理もないことかもしれなかった。しかし私は自由連想法や中立性の維持に関して迷いが生じるのは、それが自己流のものでしかなく、自分が正式なトレーニングを経ていないためのものであると考えた。その程度の謙虚さは幸い持ち合わせていたことになる。ただし今から思えば、それならいかなる時に、どのような事情で支持療法が用いられるべきかについての、分析理論に基づいた理解も私の中では不十分であった。
その後私は米国で精神分析のトレーニングを積むことになったが、それは日本の多忙な精神科の臨床を続けながらそれ以上の精神分析の勉強を続けることに限界を感じたからであった。それは私にとっては自然な選択であったが、私が当時いろいろな意味で身軽であったことも大きく影響していた。留学を終えた後の予定は一切白紙であったため、最終的に自分の求めるのもが精神分析でなくてはならないという束縛すらも感じなかったことも後から振り返れば幸いなことであった。