2017年5月25日木曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」①

今後しばらくは、「新しい精神分析Ⅲ」に向けた衣替えした文章である。

 いまや関係精神分析は、米国における現代の精神分析の様々な流れの総称といってもいい。そこにはコフート理論、間主観性の理論、乳幼児精神医学、外傷および解離性の理論など、古典的な分析理論に対して相対主義的な立場を取るあらゆる動きが学派を超えて集結し、さらなる広がりを見せているという印象を受ける。私は関係精神分析こそが、精神分析の将来を担う、あるいはその希望を託すことが出来る流れだと考えている。
 関係精神分析は1983年に、ある著書により産声を上げた。ジェイ・グリンバーグJay Greenbergとスティーブン・ミッチェルStephen Mitchellによる著書「Object Relations in Psychoanalytic Theory(精神分析における対象関係理論)」(6)(邦訳題「精神分析理論の展開」)である。彼らはその本により、対象関係論と対人関係理論の共通項としての関係性という考え方を用いたのである(4)。
 それが対象関係論とも対人関係論とも異なる関係精神分析 relational psychoanalysis として独自のメッセージを帯びて発展していった背後には、その著者の一人であるミッチェルという希代の精神分析家のカリスマ性と人間性、そして強力なリーダーシップがあった。従来精神分析の学派の多くは、それぞれ一人の偉大なリーダーシップと共に発展してきた。クライン学派、ユング派、ラカン派、サリバン派等はその例である。関係精神分析はミッチェルの名前を冠してはいないが、いわばミッチェルが育て上げた学派というニュアンスすらあったのである。ミッチェルは2000年12月に不幸にも急死したが、その遺志は明確な形で現在も受け継がれている。

2.そもそも関係精神分析とは何か?

 関係精神分析の本質は、臨床場面で患者と治療者の間に生じる体験のリアリティを追求することにある。それはひとことで言えば同理論が強調する治療者と患者の二者性、ないしは二方向性である。治療関係において生じるのは、結局は二人の人間の間のやり取りである。当然のことながらお互いがお互いに影響を及ぼし合うのだ。それを前提として精神分析の理論を組み立てるという立場である。フロイトの示した古典的な精神分析モデルは、治療者は患者の自由連想に耳を傾け、その無意識的な欲動を解釈することを治療の本質として捉えていた。それは観察するものとされるもの、知るものと知らざる者、治すものと直されるものと一方向性を確かに有していた。しかし実際には治療者は客観的な観察者にとどまることはできない。その言動や振舞いは患者の自由連想に反映され、またその連想内容は翻って治療者に影響を与える。関係精神分析において強調される二者性は、治療者と患者は各瞬間に影響を及ぼしあっているという現実を指し示しているのである。
 関係精神分析の事実上の創始者であるグリンバーグとミッチェルは、このような自分たちの立場を、まずはフロイト的な欲動論的立場に対するアンチテーゼとして位置づけた。しかし同様の主張は米国において1970年代より複数の分析家によりなされている。それが古典的な視点に立ったいわゆる一者心理学one person psychologyとは異なる、二者心理学two person psychology(5)の立場である。精神分析を患者との相互的なかかわりの中で創造される過程として捉える関係精神分析は、その理論的な系譜としては、いわばこの二者心理学の発展形と言える。
 そしてこのような関係精神分析の立場はまた、いわゆる社会構築主義のそれとも多くの点で重なり、現代的な人間の知のパラダイムの展開、とりわけポストモダニズムの影響を大きく受けている。しかし関係精神分析は単に一つの理論的な立場には留まらない。その人間観や背後に流れるヒューマニズムにこそ大きな特徴がある。以下に述べるとおり、それは患者の立場の重視、ひいては人間性の尊重という姿勢に貫かれているのだ。
 ところがわが国の現状においては、臨床家の間で、関係精神分析に対する賛同の声や反論が聞かれる以前に、そもそもその存在が十分に認識されていない。米国を含む諸外国ではかなり存在感を増していることとは非常に対照的であるし、また非常に残念なことと言わなければならない。精神分析療法を実践する上で最も生産的なのは、治療技法を超えた治療者と患者との出会いの体験であり、関係精神分析はそれに理論的な根拠を与えてくれるからである。