自己愛は皆が持っている
現在私は、人はみな恥をかくことを恐れるのと同じように、相手から認められたいという願いや期待を抱き続けると考えている。その願望や期待は私たちの社会生活の隅々にまで及び、そのあり方はきわめて流動的であり、状況により変化する。例えば職場で自分より目上の人とすれ違った時にぞんざいな挨拶しかされなくても、あなたは特に傷つくことはないかもしれない。ところがすぐ次の瞬間にすれ違った部下の頭の下げ方が小さかっただけで、あなたは憤慨するかもしれないのだ。あるいは朝立ち寄ったコンビニの店員に無視されたような気がして、午前中いっぱい不愉快な気分が抜けないということもあるだろう。
このように自己の存在やその主張を認められたいという願望を大多数の人が持つものとしてとらえることは重要である。本書では自己愛の弊害を強調して描いたが、自己愛は私たちにとって自然で、欠くことのできないものでもある。誰もが自己表現をし、他人にそれを聞いてもらいたいという願望を自然に持つ。そして皆がそれを持っているために、互いが互いの話を聞きつつ、自分の主張をそこに織り込むという形で対人交流が成り立つ。自己表現はギブアンドテイクであり、互いに譲り合うべきものでもある。自分の話もして、相手の話にも耳を傾ける。互いの話に刺激されて話が発展していく。それが楽しい会話だろう。しかしそこに、特に自分の話を聞いてほしい、という強い願望を持つ人が現れる。たまたまその人が力を持つと、その自己表現の願望が肥大し、人を押しのけて暴走を始める。人がナルシシストになるときである。
この最終章を書いていたある日、私は自宅近くの喫茶店で本を読んでいた。3人のお年寄りの女性が入ってきて私の隣の空いている席を占めた。どこかに一緒に出かけた帰りらしい。親しい仲であることが様子からわかる。3人とも明らかに70代以上と見られる。その中で一人の女性が気になった。Aさんとしよう。彼女はとても声が大きい。気がつくとAさんはひっきりなしに話している。残りの二人も隣どうして静かな会話が起きることがあるが、Aさんは隙あらば割って入り、自分の話題に引き寄せていく。結局三人の会話というよりは常にAさんの声がずっと鳴り響いているような感じなのである。残りの二人は当惑をしているように見えたが、Aさんを特に排除することなく、それなりに和やかな時が流れていた。
きっとAさんは家庭でも敬遠されているのではないか? 家族の誰も彼女の話を黙って聞こうとはしないのだろうか、それとも家族はかなり我慢してその話に相槌程度で応えているのだろうか? あるいはAさんは夫に先立たれて長い間ひとり暮らしで話し相手を欲しがっていたのだろうか? Aさんもナルシシストの部類に入るのだろうか? いろいろ想像が膨らんだが、いずれにせよAさんの自己表現の願望は宙に浮いてしまって、誰にも受け止めてもらえない悲しみがしばらく心に残った。
みなが心の底で自分のことをわかって欲しいし、認めて欲しい。どんなに無口な人だってそうである。ブログやツイッターがいかに多くの人に支持されているかを見ればわかる。自己表現の欲求は自然なものであり、むしろそれがないほうが心配だろう。しかしその度が過ぎる場合が問題なのだ。
最近私がよく考えるのは、適切な形で自己表現をし、それに興味を示す人に応答してもらうようなシステムは作れないか、ということである。それはナルシシストたちの一方的な自己表現を聞き続けることから人々を解放するだけでなく、おそらくは気弱な人々にも適切な自己表現の機会を提供するかもしれない。このIT社会ではきっとそのような仕組みを作ることが出来るだろう・・・。
最後は私の空想の話になったが、言うまでもなく本書も、私の自己愛の表現手段の一つである。私の話の一方的な押し付けにならなかったことを望む。