自己愛と恥は、光と陰の関係である
幸いにも私自身はあまりナルなタイプではないと自分では思っている。むしろ気弱で、人前に出るのは恥ずかしく、苦手なタイプである。だから最初に私が関心を持っていたのは「恥」というテーマだった。これは後に関心を持つようになり、本書のテーマとなった自己愛とは、いわば正反対なものとも考えられよう。自己愛とは自分を他人に示したい、認められたいという願望を伴う。他方の恥は、他人から見られることを避け、人前から身を引くという傾向を生む。自己愛と恥は、先ほども述べた通り表裏一体の関係にあるのだが、はじめはそのことは考えていなかった。
このように書いていると思い出すことがある。高校生の頃、Sというクラスメートがいた。私はどれだけ彼をうらやましいと思ったことか……。彼は私が欲しいものをたくさん持っていた。スポーツは万能で勉強もよくできた。しかし特に人前で物怖じしない態度が素晴らしかった。全校生徒が集まる生徒会でも、「ハーイ」などと平気で挙手して意見を言う。Sのように奔放にふるまえたらどんなにいいだろう? でもそうしている自分をイメージするとたちまち羞恥心がわいて手足がすくんだ。
どうしたらSのようになれるのか? 否、私はどうして彼のようになれないのか。彼と私はどうして違うのか、などと思い続けた青春時代だった。しかしこう書いてみると、恥と自己愛に関する私の関心の原点は、まさにここら辺にあったことがわかる。それは、私が羞恥心が旺盛だった、という一事にはとどまらない。他方には自己を表したいという強い願望があるからこそ、私はそれを阻む羞恥の問題について考えざるを得なくなった。私が自己主張をしたい、人に存在を認められたいという願望を持たなければ、私は自分の羞恥を自覚することもなかったのである。
自己を表したい、認められたい、という願望を広義の「自己愛」と考えるならば、私は恥と自己愛の深い関係をこの頃すでに生身で体験したことになる。しかし私の中で恥と自己愛のテーマが明確な形で自覚され、結びついたのは、ずっと後のことである。
その後私は精神医学の道に進んだが、当初からいわゆる対人恐怖の心性に興味を持っていた。自分の中にそのような傾向を強く感じていたからというのもあるが、恥をかくことへの恐れは、私たち皆が多かれ少なかれ持っているきわめて重要なテーマであること、しかしなかなか正面切って論じられることがないという事情があることが理解できるようになった。特に欧米の文献には、恥はなかなか出てこないテーマだった。他方では対人恐怖は日本に特有の病理と考えられていた。恥や対人恐怖の研究は、日本の精神医学のお家芸と言ってもよかったのだ。私が一九八〇年代の半ばに渡仏や渡米をしたとき、海の向こうの精神科医たちに手土産代わりに何か伝えられることがあるとしたら、それは対人恐怖についての日本における研究であろうと思っていた。
そして私は一九八七年に米国に渡ったが、欧米にはなかったはずの恥の議論がすでに始まっていたことを知って驚くこととなった。アメリカでは恥に関する精神分析の書籍がすでに目白押しに刊行され、一種の「恥ブーム」が起きていたのだ。そしてそこではおおむね、「自己愛と恥は、表裏一体である」という論じ方をされていたのである。アンドリュー・モリソンの『「恥―自己愛の裏面』(Shame: Underside of Narcissism.1989)という本は特に私にとっては非常に大きなインパクトがあった。彼の主張は、第六章でも紹介したハインツ・コフートの自己愛の理論は、恥に関する論考であると言った。そして「恥とは自己愛の傷つきのことである」という、とても明確な定義をした。そしてこの頃から、私の中でも恥と自己愛は互いに関連したテーマとして扱われるようになったのである。