2017年3月27日月曜日

「訳者まえがき」を書いた

訳者まえがき ― 眺望としてのホフマン
ネットで拾った、最長のGIF動画

共訳者の小林氏と本書の訳出の作業を開始しからもう5年ほどたつ。毎週毎週、それこそ一行ごとの英文と訳文との照合を積み重ねるのは気の遠くなるような作業だったが、今から振り返ればあっという間という気もする。
本書の意味付けについては詳しくは、巻末の小林氏の「改題」に譲るが、ホフマンの文章は数多くの精神分析の論文の中では異色であるように感じる。それは精神分析について語っているようでいて、およそ人間が携わる生きた営みのすべてに言及しているようにも聞こえる。すべての私たちの活動は、ある種の伝統を固守する反復的で儀式的な側面と、それにとらわれない自由で創造的な面、すなわち自発的な面を有する。そして両者は弁証法的な関係を有し、お互いがお互いにその存在の根拠を与え合っている。伝統なしでは、そこを踏み台にして自由さを発揮し、味わうことが出来ない。またそこを踏み外す可能性を秘めているからこそ、伝統や反復の存在意義が与えられる。精神分析が生きた人間同士の営みである以上、そこにもこの二つの要素が常に関係しあっている。
本書で著者が自らの立場を「弁証法的」と表現しているように、この様な儀式的な側面と自発的な側面の動的な相互関係を常に見据えることが彼の分析家としての立場である。そしてその視点から見える精神分析理論は、一つの眺望を与えてくれるのだ。フロイトの教えに従った伝統的な精神分析はどちらかと言えば儀式的な側面に重きを置いたものであり、関係精神分析と呼ばれる現代的な精神分析はどちらかと言えば自発性の方に重きを置いたものと言えるであろう。そしてHoffman は特にどちらに肩入れするというわけでなく、それを弁証法的な観点から眺め、コメントをする。あらゆる分析理論をその眺望の中にコトンと置いて見せるのだ。
翻訳作業を進めながら小林氏と幾度となく思ったのは、「著者Hoffman は同じことを何度も何度も、言葉を変えて繰り返しているだけのではないか?」ということだ。確かに彼の主張は、そのほとんどが結局は、その臨床体験は、あるいはその分析理論は、弁証法的な視点からとらえ直される、ということである。そうである以上、彼の著作が、1998年に出版された本書以外に見当たらないというのもよくわかる気がする。彼は大切なことは本書で言い切ったし、これ以上何を言ってもこれまでの言いかえに過ぎない、という感覚があるのかもしれない。しかし同時に私が思うのは、彼の主張を読むと、いつも新しく新鮮に感じるということだ。以下に私たちの心が弁証法的な思考から遠ざかり、オールオアナッシング的なとらわれに陥りやすいということなのだろうか?
ともあれ本書を一読した読者が彼の眺望を手に入れ、それを自由に使いこなすことを望んでやまない。