2017年3月23日木曜日

精神療法の強度 推敲 ⑥

スペクトラムの中での柔構造 ―ある心の動かし方
繰り返しになりますが、私は精神科医ないしは精神療法家として、かなりケースバイケースで治療を行っています。つまり上述のスペクトラムの中で、強度8から0.5まで揺れ動いているところがあります。これはある意味では由々しきことかもしれません。「精神療法には構造が一番大事なのだ」。これを小此木啓吾先生は口を酸っぱくしておっしゃっていました。でも私はこれをいつも守っているつもりなのです。というのも私は結局はどの強度であっても、ある一定の「心の動かし方」をしていると思うからです。そして私はそれを精神分析的と考えています。ここで私は「分析的」という言葉を、内在化された治療構造を守りつつ、逆転移に注意を払いつつ、患者のベネフィットを最も大切なものとして扱うという意味で用いています。それが私の「心の動かし方」の本質です。その心の動かし方それ自体が構造であるという感覚があるので、外的な構造についてはそれほど気にならないのかもしれません。
 ある「心の動かし方」はそれ自体が一種の構造を提供しているという側面があると述べました。その心の動かし方にはすでにある種の構造が内蔵されています。ですから時間の長さ、セッションの間隔などは比較的自由に、それも患者さんの都合を取り入れつつ変えることができます。それでも構造は提供されるのです。ただし実はその構造が厳密に守られることではなく、それがときに破られ、また修復されるというところに、治療の醍醐味があるのです。そのニュアンスをお伝えするために一つの比喩を考えました。
かつて私は治療的柔構造のことを、一種のボクシングのリングのようなものだと表現しました(岡野、2008)。カッチリ決まった、例えば何曜日の何時から50分、という構造は、相撲の土俵のようなものです。足がちょっとでも土俵の外に出るだけであっという間に勝負がつく。その俵が伸び縮みすることはありません。ところがボクシングのリングは伸び縮みをする。治療時間が終わったあとも30秒長く続くセッションは、ロープがすこし引っ張られた状態です。そして時間が過ぎるにしたがってロープはより強く反発してきます。すると「大変、こんなに時間が過ぎてしまいました!」ということで結局セッションは終了になります。そのロープの緊張の度合いを、治療者と患者が共有することに意味があります。
岡野(2008)治療的柔構造-心理療法の諸理論と実践との架け橋.岩崎学術出版社

 このようにボクシングのロープ自体は多少伸び縮みするわけですが、リング自体はやはりしっかりとした構造と言えます。その中で決まった3分間、15ラウンドの試合を行うというボクシングの試合もまた、かなり構造化されたものです。そして、本来治療とはむしろこのボクシングのリングのようなもの、柔構造的なものだ、というのが私の主張でした。
 しかし「心の動かし方自体が柔構造的だ」という場合は、ここで新たな比喩が考えられます。同じボクシングの比喩ですが、コーチにミットでパンチを受けてもらう、ミット受け、ないしミット打ちという練習です。
ボクシングの選手が「ミットで受けてほしい」、とコーチのもとにやってくる。コーチはミットを差し出して選手のパンチを受けます。ひとしきり終わると、「有難うございました。いいトレーニングになりました。ではまた」と選手は帰っていきます。ここにも大まかな構造はあるでしょう。どのくらいの頻度でミット受けをしてもらうかは、選手ごとに異なるはずです。一時間みっちり必要かもしれないし、試合前に5分でいつもの感覚を取り戻すだけかもしれない。しかしここにもたとえば月、水、金の5時ごろから30分ほど、などの大体の構造はあるはずです。さもないと二人とも予定が合せられないからです。
 さてミット受けが始まると、選手はコーチがいつもと同じようなミットの出し方をして、いつもと同じような強さで受けてくれることを期待するでしょう。場所はあまり定まっていないかもしれません。その時空いているリングを使うかもしれないし、ジムが混んでいるときはその片隅かも知れない。夏は室内が暑いから外の駐車場に出て、風を浴びながらひとしきりやるかもしれない。その時選手とコーチはお互いに何かを感じあっていることになります。コーチは今選手がどんなコンディションかを、受けるパンチの一つ一つで感じ取ることができるでしょう。選手はコーチのミットの絶妙な出し方に誘われて自在にパンチを繰り出せるようになるのでしょうが、時にはコーチは自分にどのようなパンチを出して欲しいかが読み取れたりするかもしれません。その意味ではミット打ちは選手とコーチのコミュニケーションという意味合いを持っています。
 このミット打ちの比喩が面白いのは、選手とコーチの間の一方向性があり、それが精神療法の一方向性とかなり似ていると言うことです。コーチがいきなりミットを突き出してきて選手にパンチを繰り出すようなことはない。コーチは自分がボクシングの腕を磨くために、あるいは自分のボクシングの能力を誇示するためにミット打ちを引き受けるわけではないからです。コーチはいつも選手のパンチを受ける役回りです。いつも安定していて、選手の力を引き出すようなミットの出し方をするはずです。その目的は常に、選手の力を向上させるためです。あるいは試合前に緊張している選手の気持ちをほぐすため、という意味だってあるでしょう。こうして考えれば考えるほど精神療法と似てきますね。
 そしてこのミット打ちを考えると分かる通り、そこに構造があるとすれば、それはコーチのミットの出し方、選手のパンチの受け方に内在化されているのです。そこにはいつも一定のスタンスと包容力を持ったコーチの姿があるのです。

ここである臨床例について話したいと思います。