2017年2月4日土曜日

錬金術 ⑤

「ささやかな楽しみ」と報酬系

覚醒剤やタバコほどではなくても、人は毎日ある程度満足の行く生活を送っているのであれば、ある種の「ささやかな楽しみ」をどこかに持っているはずだ。それは仕事の後の冷たいビールかも知れない。ひと時のパチンコでもありうる。家族との団欒かも知れない。最近ならスマホをいじりながらだらだらと過ごす数時間に喜びを感じる人も多いだろう。スポーツジムでしばらく汗を流すことかもしれないし、夕食後眠くなる前にノンフィクションを読むことだったりするかもしれない。
これは生きがいというには大げさだが、一日がそこに向かって流れて行くというところがある。あなたはそのような時間を全面的に肯定しているだろうし、誰も自分から奪うことが出来ない、一種の権利だと思うかもしれない。事実あなたが他人に迷惑をかけることなく、自分の職務を遂行し、家族の一員としても十分に機能しているのであれば、後はどんな「ささやかな楽しみ」を持とうと、それは人にとやかく言われる筋合いのものではない。  
さてこの「ささやかな楽しみ」への肯定観を保証しているのはなんだろうか?何かの法律だろうか? ちょっと極端だが日本国憲法を持ち出そう。条文にはこうある。
「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(憲法第25条)。
おそらく「ささやかな楽しみ」を持つことを法的に保障してくれるものは、これだろうか? ただし「文化的な最低限度の生活」は報酬系の刺激には必ずしも必要十分条件ではない。仕事帰りのパチンコや寝る前の一杯や一服は、「文化的」かどうかは難しい問題だろう。未開人は水道も電気も持っていなかった。冷暖房などあるわけもなく、夏は暑さに、冬は寒さに苦しんでいた。私たちの目からはとうてい彼らは「文化的な生活」を営んでいたとは言えなかっただろう。しかしそれでも彼らにとっての「ささやかな楽しみ」は存在していたはずだ。それこそ狩猟に疲れた体を焚き火の残り火の前で休めるひと時だって彼らにとっては一日の最後に待っているかけがえのない時間だったかもしれない。熊本地震で住むところに困り、車の中に寝泊まりをしている状態では、決して「文化的な最低限度の生活」は保障されていないことになるが、それでも彼らは一日のどこかになんらか「ささやかな楽しみ」を作り出すことで、心のバランスを保っていたはずである。飲酒や喫煙だって重要な役割を担っていたに違いない。しかし、「飲酒や喫煙がなければ『文化的な最低限度の生活』とはいえない!」と主張しても、誰も耳を貸してくれないだろう。
結局「ささやかな楽しみ」は、「文化的な最低限度の生活」のさらに上に、あるいは下に、あるいはそれとは別立てで存在するものだ。「文化的な最低限度の生活」そのものは「ささやかな楽しみ」を必ずしも保証しない。場合によっては文化的な生活が保障されていても「ささやかな楽しみ」得る事が出来ない人がいる一方では、帰る家を持たないで野宿する人々がひそかに得ているものだったりするのである。それはどこかのコンビニのゴミ箱から見つけてきた賞味期限の切れた弁当をいただくことかもしれない。私たちの生活では常に「ささやかな楽しみ」は「文化的な最低限度の生活」に優先される、と言ったら大袈裟だろうか?
私たちの日常の多くはストレスの連続である。思い通り、期待通りにいかないことばかりである。それでも私たちの大部分が精神的に破綻することなく日常生活を送る事が出来るのは、実はここに述べた「ささやかな楽しみ」のおかげである。ちょうど身体が一日の終わりに睡眠という形での休息やエネルギーの補給を行うのと一緒であり、これは魂の「休憩」なのだ。「ささやかな楽しみ」を通じて、人は日常の出来事の忌まわしい記憶から解放され、緊張を和らげる。その時間が奪われた場合には、私たちは鬱や不安性障害といった精神的な病に侵される可能性が非常に高くなる。「ささやかな楽しみ」は、それにより人が社会生活を継続して送るために必要不可欠なものなのだ。「文化的な最低限度の生活を営む権利」をおそらく凌駕するものである。ただしおそらく「ささやかな楽しみ」の前提として文化的な最低限度の生活が保障されていることは有利に働くであろう。たとえば雨風を十分にはしのげないような住居や、PCもテレビもないような困窮した生活では「ささやかな楽しみ」は望むべくもないかもしれない。
おそらく私たちの祖先は、「ささやかな楽しみ」を善として、良きものとして体験することを生業として生きてきたはずだ。そしてそれはおそらく善、悪の感覚や、個人の権利の母体となった可能性がある。あるいはそれを見つけることが出来るような個体が生き残ってきたものと思われる。そう、今生きのこている生物は『ささやかな楽しみ』を見つけ、創り出すエキスパートといえるのかもしれない。
ここで報酬系の関与する快や不快が、善悪といった倫理観と結びつくというのが、この章の一番のポイントである。そして心地よい活動に浸っている時は、それに対する超自我的なチェックが緩むという仕組みがあるはずだ。それは「ささやかな喜び」を確保することへの後ろめたさを軽減しないための心の仕組みといえよう。
しかし・・・・・もちろんここに一つの大きな問題がある。「ささやかな楽しみ」はしばしば自分の中でも社会でも葛藤を生み、ただ単に楽しいでは済ませられないと言われてしまう可能性がある。コメディアンTにとっては、一時の覚せい剤がこの「ささやかな楽しみ」だった可能性がある。しかしそれは彼のの人生を狂わし、社会生活を台無しにし、やがては報酬系を乗っ取ってしまう可能性のある「たのしみ」でもあったのだ。この場合は報酬系の興奮=「休憩」=人生を維持するための「ささやかな楽しみ」は、とんでもない錯覚だったり恐ろしい陥穽であったりもするのだ。