2017年2月5日日曜日

錬金術 ⑥

今日一生懸命手を入れたところ

「報酬系の興奮イコール善」とする根拠

それにしても善、とは何だろう?人として正しい道。自分の良心に照らして肯定されるべきこと。それを追求することが誰からも非難されず、いかなる形での抑制も存在しないような願望なのであろう。
生命の進化において、心地よさが無条件で、なんの抑制もためらいもなく追求されることは、おおむね適応的なのだろう。あるいは生存にとって有利なものを心地よく感じ、純粋に追い求める個体が結果的に生き残ってきたわけだ。摂食と生殖にどん欲な人(つまり健啖家で色好みの人)が成功者の中には多いというのも、その意味ではよくわかる話だ。しかし快の追求がことごとく生命の維持にとって合目的的であるという時代はもう終わったのかもしれない。この飽食の時代には食べ物は生活に溢れている。快を追求したいならば、人は永遠に口当たりがよく安価なジャンクフードを摂取し続け、健康を害することが目に見えている。それが純粋に善であるというわけなどない。しかしそれでも快を善として体験するという習性は残ってしまう。そしてコメディアンTのように、覚醒剤が「休息」として体験され続けるのだ。

結局は報酬系に従うことが健康の秘訣?

だから報酬系の刺激を追求することが善である、と言い切ることには当然無理がある。覚醒剤依存症の人の報酬系は、いわば覚醒剤によって乗っ取られた状態にあるが、そのまま使用し続け、自分の人生や家庭を破滅に追いやるのが正しいわけはない。しかし彼らの報酬系は、人工的な状況ないしは物質の使用により、本来あるべき姿がゆがめられたものである。人が自然に展開していく人生の中で、その報酬系をマイルドに刺激するような活動を見つけ、それが仕事を犠牲にせず、あわよくばそれを仕事に関連させることが出来たとしたら、その人こそ最も充実した人生を送ることが出来るのである。
たとえば幼いころより絵を描くことが好きで、常にスケッチブックを持ち歩いていたり、美術クラブで活躍し、良い作品を創ることが出来る人は、人や物を視覚的に描くような仕事に就くことはその人の人生をきわめて生産的なものにすることが出来るだろう。ただしもちろんその人が仕事を純粋に楽しむことが出来る保証はない。芸術家や美術の先生という道を選ぶとしても、自分の好きなテーマばかりを描いていたり、教師としての様々な業務を怠るわけにはいかない。注文に応じて大衆受けする絵を、本来自分が描きたい絵とは別に描く必要も生じるだろう。しかし本質的に絵を描くことが好きであれば、それに耐え、そこから新しい発想を得ることも可能であろう。
私はここから漫画家水木しげる氏にバトンタッチして、彼の主張を紹介したい。彼の著書「水木サンの幸福論」には以下の7か条が記されている。(以下略)