2017年1月6日金曜日

日本のエディプス ⑪ ファルスは隠されているのか、それとも不在なのか? 草稿

これまで述べたことをまとめるならば、日本人に見られる秘密主義や表現回避的な傾向が、本来のシャイで対人過敏な傾向に関係し、それがおそらくは隠されたものにある美や美徳や価値を見出す文化の形で昇華されているという可能性について論じたことになる。そこにはある種の誘惑もある可能性もあろうという点についても触れた。この問題については、いささか精神分析の発表では場違いに思われるかもしれないが、最近のセロトニントランスポーターの遺伝子に関する報告も後押ししている。日本人はこの遺伝子の短型が多く、用心深く不安を感じやすい傾向を表しているのである。
また精神分析の世界では、阿闍世の問題、見るなの禁止、甘え、などの概念が日本人の心性を特徴付けるようなものとして提案されているという点を示した。このうち「見るなの禁止」において問題となるのは、力への挑戦というタブー(父親殺しのタブー)よりは、むしろ現実の醜さや弱さを暴くことへのタブーであり、それは本来脱錯覚という形で「時間が来れば破られるべきタブー taboo to be broken in time」としてそこに存在する。また阿闍世の概念については、エディプス的、父親的で懲罰的な影響力ではなく、むしろ母親的な許しが人に罪悪感を生むというプロセスが提示された。
 これらに共通している点をまとめるならば、日本人は自らの力や要求を表現せず、主張せず、むしろ隠す傾向にある。それはそうすることで自分が目立たないでいられるからだ。いわば母親とのプレエディパルな関係性、土居なら甘えと呼ぶであろう母子関係、バリントの言う受身的対象愛が大きな意味を持つことになる。
日本のエディプスはこのように考えると、どちらかといえば陰性のそれとして理解することが出来るであろう。日本のエディプスとは結局直接対決や競争をしないことに特徴付けられる。しかしこの姿勢はおそらく日本以外のどこの世界には通用しないであろう。戦うことを最初から放棄している日本人は、とてつもないプッシュオーバーと思われてしまう。甘えはそれである。人にこちらのニーズを分かってもらうことを期待してしまう。それをやっていては日本の将来はないであろう。
精神分析理論はおそらく人間の心を理解する方針を指し示すことに役割がなくてはならない。
フロイトにおけるエディプス理論は自らの持つ攻撃性の受け入れであった。日本的なエディプスとは、父親とは集団であり、社会である。そしてそこで個が自立するために真に必要なのは集団の中で一人であること、なのであろう。しかし個人が独立して自己主張する際に、日本人は本当に大人にならなくてはならないのである。
日本のエディプスの問題を、隠すという観点から言い換えると次のように定式化できるのではないか? 日本ではファルスはいかに隠すか、というところにある。しかしそれは隠れることで威力を持つようなファルスでもある。あるいはそのようなファンタジーを抱いているのが日本人ということも出来る。しかしファルスを隠すという戦術は意味を持つのだろうか?
日本のエディプスに関しては、一方では母親との結びつきが大切であり、逆エディプスの関係を父親と結びやすい。そのせいか、日本人は父親≒社会と正面からの対立は避ける。そこでは社会との一体感、ペニスをいかに隠すか、あるいは鞘に格納したままにしておくかが重要。ペニスをひけらかすことは羨望を生むという口実に、ペニスの比べっこをすることのない社会が日本だ。核を持たない社会。持たないことに誇りを持つ社会。我が国のセロトニントランスポーター遺伝子はそれを意味している。

ここまで言っちゃっていいのだろうか?