フロイトへの提言-自己愛と怒りの本質
さてフロイトはなぜ、自らが身をもって体験していた自己愛の問題を精神分析理論に反映させなかったのだろうか。フロイトはフェレンチにもユングにも、その離反について、エディプス的な解釈をした。
「ユングは父親コンプレックス(エディプス葛藤)を解決していない。だから私を殺して私の座に取って代わろうとしているのだ。フェレンチも結局はそうなった。」
ここに現れているのは、フロイトが弟子たちのエディプスの問題に注目しているという事実である。それはフロイトが自己愛の問題を意識化していなかったことを示しているというわけではない。ただ重視していなかったからだ。なぜだろうか?それは自己愛の問題は、少なくともフロイトの目には、無意識を介していない、ありのままの、見たままの問題だったからである。フロイトは初めから露わになっているものには興味がなかった。「あたりまえ」だからであり、それ以上の価値がない。
そこで生前のフロイトの時代に戻って、フロイトにこう尋ねたらどうか?「フロイト先生、お尋ねします。あなたがそれだけ誰かの注目を浴びたいのは、実はお父さんから十分に認めてもらえなかったからではないですか? そのことの自己愛の傷つきを十分に意識化されないままにほかの人に向かっているということはないのですか?」
これに対してフロイトはこう言うだろう。「私が父に抱いていて、意識化していなかったのは、殺したいほどの憎しみだよ。私は父の死の際にそれに気が付いたのだ。それに私にはおそらく無意識に同性愛願望があるのだろう。父親に愛されたかったということだろうね。言っておくが、人に認められたい、という願望は勿論ある。でも病理とは無関係なんだよ。何しろセクシャリティーと無関係だしね。私が父親を憎んだのは、母親に対する性的願望を禁止されたからだよ。少なくとも私の説ではね。それ以外は意味がないのだよ。・・・・」 そう、おそらく議論はかみ合わないままなのである。
ここで100年の歳月が流れてフロイトに提言するとしたら、以下のようになろう。フロイト以降様々な理論が生まれた。侵害(ウィニコット)・基底欠損(バリント)・愛着トラウマ(ショア)・共感不全(コフート)・甘え体験の欠如(土居)などに表されるような事態は何か?それはいわば原初的な自己愛トラウマなのである。自己愛の原初形態は身体であり、そこから派生するパーソナルスペースである。その境界は母親との情緒的、身体的接触により定まるのであろう。それが破綻した場合、「自分は取るに足らない、生きていても仕方がない存在である」という感覚を生むことなのである。
では原初的なトラウマに対する乳児の反応はどうであろう?それは以下の通りだ。
● 反撃 (ボクは今このおもちゃを欲しいんだ!と泣いて抗議する、など。)
● 反撃ができない(無効な)際の怒りや恥 (ボクはおもちゃが欲しかったのに。チクショー!)
● 迎合及び偽りの自己の形成 (ボクはいい子だから、おもちゃなんていらないよ。)
● 凍結(解離) (・・・・・・・。)
最後にもう一度結論を述べよう。怒りとは「原初的な自己愛トラウマ」に対する一つの表現形態なのである。