はじめに
この教育研修セミナーは「自己愛と怒り」いうテーマなので、私はそのままの題名でお話します。私はもともと恥と自己愛のテーマに興味を持ち、それに関連する著書を発表してきました(岡野、1998, 2014)。自己愛の傷つきによるトラウマと、それに反応する形での怒りという問題は、私の中でかなり大きな位置を占めるようになってきています。最初にこのテーマについて考える直接のきっかけとなったことについてお話します。
岡野憲一郎 (1998) 「恥と自己愛の精神分析」(岩崎学術出版社
岡野憲一郎 (2014) 「恥と自己愛トラウマ」 岩崎学術出版社
かなり以前のことですが、浅草通り魔殺人事件」というのがありました。2001年4月30日、東京の浅草で、レッサーパンダの被り物をした29歳の男性が19歳の短大生を白昼に路上で刺殺したという事件です(佐藤、2008)。男は女性に馬乗りになって刃物で胸や腹を刺していたということです。 「歩いていた短大生に、後ろから声をかけたらビックリした顔をしたのでカッとなって刺した」と供述しています。これでは何のことだかさっぱりわからないでしょう。この一見意味不明の言動や、動物の形をした珍しい帽子を被っていたという奇妙さも手伝い、非常に世間の耳目を集めたのです。
佐藤 幹夫 (2008)自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」 朝日文庫
しかし北海道出身のこの男性は、「いるかいないかわからないような」「おとなしい男」と知人らから評されています。「とても殺人などするような男ではない」とも言われていますが、そんな男がなぜ、このような残酷な事件を起こしたのでしょうか?
ただ私がこの事件の一端がわかったという感覚を持ったのは、起訴状にあったという、「ビックリした顔をしたので馬鹿にされたと思い、カッとなって刺した」という彼の言葉です。もちろんどうして女性のびっくりした顔が「馬鹿にする」と受け取られたかは謎です。おそらく発達障害に特有の対人関係における認知の問題があったのでしょう。しかしそこには一筋の因果関係だけは見えていて、それが「馬鹿にされたから、カッとなった」ということなのです。つまり自己愛の傷つきによる怒りの反応であったということです。おそらくこの「自己愛の傷つき → 怒り」という回路が成立していない心などありえないのでしょう。
自己愛と怒りの二つの原則
ここで一般心理学に目を移してみましょう。最近怒りをどのように理解し、コントロールするかということが話題になっています。いわゆるアンガーマネージメント(怒りの統御)と呼ばれる考え方ないしは手法が知られています。うつ病でも薬物依存でも、およそあらゆる治療手段の一環として登場します。つまり自分の怒りが生じるプロセスを理解し、それを自らコントロールできるようになりましょう、というのが趣旨ですが、その一つの決め手は、怒りを二次的な感情としてとらえるという方針です。私がここに描いてみるのは、アンガーコントロールのレクチャーなどで使われる、「怒りの氷山」の絵です。このような図はネットなどで非常に多く見ることが出来ますが、どれも大体似たような図柄です。(図は省略)
つまりこの図が表わしているのは、怒りというのはその人の傷つきや恥や、拒絶されたつらさがその背後にあり、それに対する反応として生じるのだということです。別にこのような考え方は自己愛理論に立っているというわけではなく、一般心理学的な考え方としてそうだということを表しています。
ここで改めて自己愛の怒りの第一の原則を示しておきましょう。
自己愛と怒りの第1原則:「怒りは自己愛の傷付きから二次的に生じる」
自己愛と怒りの第1原則:「怒りは自己愛の傷付きから二次的に生じる」
次に自己愛と怒りのもう一つの原則を示しておきたいと思います。そのための図を示します(省略)。これは私が「自己愛の風船モデル」と呼んでいるものです。つまり私たちの自己愛は放っておくと膨らんでいく風船のようなものだということです。そしてこの風船が針で突かれると爆発して、怒りとなって表現されるというところがあります。ここで第2の原則です。
自己愛と怒りの第2原則:「自己愛は放っておくと肥大する風船のようなものである。」
それが突かれたときに怒りになったり、恥の体験になったりするわけです。ここで恥のことが付け加わった事にお気づきでしょう。そう、怒りに表されない自己愛の傷つきは恥として体験されるのです。
恥の第2原則の付則:自己愛の傷つきは、怒りとして表現されない場合には恥の体験となるという性質を持つ。
自己愛と怒りに関するこの二つの原則は非常に重要になってきます。次にお示しするテーマは、精神分析においてこのテーマはどのように扱われてきたかということですが、それを論じる際にこの二つの原則に言及したいと思います。
フロイトは自己愛の問題をなぜ理論化しなかったのか?
自己愛の問題がどのように精神分析で扱われて来たのか、という問題については、端的に言えば、「長い間無視されてきた」ということです。そしてその筆頭はフロイトです。フロイトは明らかに自己愛のテーマを抱えながら、それを精神分析理論に組み込まなかったのです。これほど不思議なことがあるでしょうか?
そのことをフロイトとフリースの関係から見てみましょう。二人が交わした書簡からの抜粋です。
フリースへの書簡(1898年5月18日)
「僕は、君が僕に一人の相手を、一人の批評家であり読者であり、その上さらに君のような資質のある人を送ってくれることを、計り知れないほどに喜んでいます。全く聴衆なしでは僕は書くことが出来ません。しかし僕は、君のためだけに書くことに完全に甘んじることが出来ます。・・・」
どうでしょう?これは二人が知り合って10年以上たった時にフロイトが送った手紙の一部ですが、いったいこれほど情熱的な手紙を送るような関係とはいかなるものなのでしょうか?フロイトの伝記をたどると、彼が特定の男性と近しい関係になることが非常に多かったことが伺えます。そのような関係はいわゆる「ホモソーシャル」な関係と形容されます。これは体育会系などで顕著に見られる緊密な絆で、しばしばミソジニー(女性嫌い)あるいはホモフォビア(同性愛恐怖症)が伴います。そしてこれはいわゆるブロマンスと呼ばれるものとも近縁です。ブロマンス(brother + romance) とはまさに男同士の親密な関係であり、ショウビジネスでのベン・アフレックとマット・デイモンの関係、あるいはジョージ・クルーニーとブラット・ピットの親しい友人関係などはしばしばその例として取りざたされます。そしてフロイトとフリースやユングの関係もブロマンスと形容する人もいます。
フロイトとフリースの関係は概ね非常に友好的なもので、それが両者の書簡集からも伺えますが、フロイトはこんな恐ろしいことを書いているのも発見しました。
「敬愛するウィルヘルムよ。僕は再び君からの手紙(ベルリン以来三度目のもの)を手にして大変うれしいので、すべての復讐の考えを追い払いました。(1897年10月21日)
ここに書かれていることが、端的に自己愛と怒りの問題を指し示しているのです。私も時々、親しい友人からのメールになかなか返事がもらえない時、プライドを傷つけられることがありますので、この気持ちはわかります。そしてここで重要なのは、相手から注意を払ってもらいたいという気持ちが裏切られた時の怒り、そしてそれが満たされた時の怒り⇒感謝のこの変換の様子です。これこそ両者が表裏一体であることの証ではないでしょうか。そしてこの興味深い現象をフロイトは体験している!それなのに彼の理論にはならなかったのです。なぜでしょうか? この答えはしばらく後までとっておきましょう。もちろんどこの本にも書かれていません。
さてフロイトとフリースの関係ですが、自己愛的な関係が辿る典型的な顛末を彼らも追うことになります。それがアーヘン湖での出来事、事件です。
(アーヘン湖事件)
1900年の夏、アヒェンゼー(アーヘン湖)で会合の機会を持ったフロイトとフリースは、激しい言葉の応酬、批判の支配を行います。英語でいえば mud slinging 泥の投げ合い、ということです。フロイトがフリースの「周期説(バイオリズム仮説)」を非科学的な推論だと批判し、フリースがフロイトの「精神分析」を適当な読心術に過ぎないと批判したことで、激しい口喧嘩に発展して訣別することになったとされます。絶交した後は、フロイトはフリースからの膨大な手紙を焼却処分してしまったのです。フリースはフロイトからの手紙を大切に保存しており、後に「精神分析の起源(1950年)」として刊行されたわけですから、激しさから言ったらフロイトの方が一枚上だったと言えるでしょう。
ちなみになぜここまで詳しい話ができるかと言えば、フリースがベリンジャーという人のインタビューに答えていろいろ話した記録があるからです。
この日に決定的な中になり、フリースによればフロイトはわけもなく怒り出したそうです。分析のプロセスには周期が絡んでいるから、よくなっても悪くなっても分析の力だけじゃないよね、などと言ったらしい。それに対してフロイトが怒りだした。「それじゃ私のやってきたことを全否定したことになるんじゃない?」 フリースはこれを周期説に対するフロイトの羨望と読んだのですが、それはあながち間違っていないようです。フロイトは、「周期説を発見したのがあなたじゃなかったら、怒り狂っていただろう、この説を私以外の人が発見したなんて!」ということをしばらく前に言っていたそうですから。
同時に起きていたのは、両性具有についても、フロイトは、自分が発見したと言い張って、のちにフリースが2年ほど前に行っていたことを思い出したそうです。そのことをフロイトが日常生活の精神病理の中で自分で述べていますが、フロイトにもこのような内省があったのは心強い。(Sulloway, FJ (1992) Freud,
Biologist of the Mind: Beyond the Psychoanalytic Legend)
さて、フロイトはユングとの関係でも同じことを繰り返しました。そして最後は「クロイツリンゲン事件」です。つまりフリースとのアーヘン湖事件と同じようなことが起きました。1912年5月、スイスのクロイツリンゲンに病床のビンスワンガーを見舞ったフロイトは、近くのチューリッヒに住むユングのもとに立ち寄らなかったそうです。
そのユングはフロイトに以下のように書き送ったそうです。
「あなたがクロイツリンゲンにいらした時に私に会う必要を感じなかったという事実は、私が展開したリビドー論を快く思っていなかったことを意味しているに違いないと私は思います。私は将来この議論の多い論点についての理解に至ることを望みます。でも私は私の方針で行くしかありません。スイス人がいかに頑固かはご存知でしょう。」
実はこれにも複雑な事情があり、フロイトは実際ユングに会うように手紙を送っていたが、それが遅れたこと、そしてビンスワンガーに急きょ会わなくてはならない事情を、フロイトはユングに伝えなかったという事情があったそうです。そうなると二人の関係ではユングの方の自己愛問題も相当だったということです。
McGuire, W. (Ed.) (1974) The
Freud/Jung Letters: The Correspondence Between Sigmund Freud and C.G. Jung. Cambridge , MA .
Harvard University Press. 平田 武靖 (翻訳)フロイト/ユング往復書簡集〈下〉1987年