ところでついでと言っては何ですが、もう一つ図をお見せしたいと思います。これは私が「自己愛の風船モデル」と呼んでいるものですが、今日の発表でも重要なので、ここでお出ししておきます。それは私たちの自己愛は放っておくと膨らんでいく風船のようなものだということです。そしてこの風船が針で突かれると爆発して怒りとなって表現されるというところがあります。ここで第2の原則です。
第2原則「自己愛は放っておくと肥大する風船のようなものである。」それが突かれたときに怒りになったり、恥の体験になったりする。オヤ?恥のことが付け加わりましたね。そう、怒りに表されない自己愛の傷つきは恥として体験されるのです。
第2原則「自己愛は放っておくと肥大する風船のようなものである。」それが突かれたときに怒りになったり、恥の体験になったりする。オヤ?恥のことが付け加わりましたね。そう、怒りに表されない自己愛の傷つきは恥として体験されるのです。
恥の第2原則の付則:自己愛の傷つきは、怒りとして表現されない場合には恥の体験となるという性質を持つ。
フロイトの自己愛
さてここで私が示したいのは、この自己愛の問題がどのように精神分析で扱われて来たのか、という問題です。端的に言えば、「無視されてきた」ということです。張本人はフロイトです。フロイトは正真正銘の自己愛のテーマを抱えながら、それを精神分析理論に組み込まなかったのです。これほど不思議なことがあるでしょうか?
そのことをフロイトとフリースの関係から見てみましょう。二人が交わした書簡からの抜粋です。
フリースへの書簡(1898年5月18日)
「僕は、君が僕に一人の相手を、一人の批評家であり読者であり、その上さらに君のような資質のある人を送ってくれることを、計り知れないほどに喜んでいます。全く聴衆なしでは僕は書くことが出来ません。しかし僕は、君のためだけに書くことに完全に甘んじることが出来ます。・・・」
どうでしょう?これは二人が知り合って10年以上たった時にフロイトが送った手紙の一部ですが、いったいこれほど情熱的な手紙を送るような関係とはいかなるものなのでしょうか?
男性間のホモソーシャルは体育会系などで顕著に見られる緊密な絆で、しばしばミソジニーあるいはホモフォビアが伴います。ホモソーシャルな関係によって、強制的に異性を愛すること、そして女性の家事労働に頼ることが前提として成り立っている家父長制が構成されます。ショウビズ界でのブロマンスの『パイオニア』である」と表現されているベン・アフレックとマット・デイモンも含まれます。ジョージ・クルーニーとブラット・ピットの親しい友人関係は、時折「ジョージの最も長く不変の恋愛関係」とも言われます。
フロイトとユングの関係もブロマンスと形容する人もいます。私の患者さんから教えてもらいました。