解離性健忘、解離性遁走
解離性障害の中で解離性健忘を一つの独立した疾患として位置づけることにはそれなりの意味がある。上記の離人・現実感消失障害は、いわば解離的な状態が継続していることを表すが、解離性健忘は、状態としての解離の結果として生じた状態と見なすことができる。すなわちある数分ないし数時間、場合によっては数日の間に起きていた解離のために、後になりその時のことを想起できないのである。しかし場合によっては解離性健忘は、DIDにおいて人格Aの持った体験を、人格Bの状態で想起できないという形で生じている可能性がある。その意味では、解離性健忘は真の健忘というよりは「想起不能状態」と形容すべきものである。解離性健忘を有する人の場合、過去の一定の事柄を想起できないことを除いては、特に心身に問題がないことが通常である。ただしもちろんこの状態は、心の機能のうち過去の記憶が統合されていない、という意味では前出の解離モデルに当てはまることになる。
解離性健忘はそれ以外の機序による真正の健忘と区別されるべきであることは言うまでもなく、健忘された期間も正常に海馬が機能していたことが前提条件となる。そのためにその期間の体験が長期記憶として皮質に保存されているものの、アクセスが不能な状態になっているのだ。ただし症例によってはこの長期記憶が存在するのか否かが不明なままである場合も少なくない。特に頭部外傷を伴っていた場合、あるいは飲酒や薬物の影響下にあった場合などは解離性健忘と真正の健忘との区別がつきにくい。更には情緒的なインパクトが強烈な場合にも海馬の機能が抑制されることでエピソード記憶そのものが形成されない場合もある。PTSDなどのフラッシュバックはその種の現象の帰結と考えることができる。
解離性健忘は、記憶がどのようなきっかけで回復するか、あるいは果たして将来にわたって回復し得るのかという点が臨床上しばしば問題になる。あるケースは数日以内に思い出し、別のケースは3年かかり、さらに別のケースは10年以上たっても想起されないという事態が生じる。健忘の生じる内容は、過去の一定期間であったり、遁走の生じた数日間であったりする。ただしいずれもスキル等の非陳述的な記憶は保存されているのが通常である。
なお解離性遁走は DSM-IVまでは独立した障害として解離性障害の中に掲げられていたが、DSM-5 では解離性健忘のサブタイプとして分類されることになった。それに伴ってその定義も、「突然の予期しない、自宅ないし職場からの旅立ち」 から「一見目的を持った旅立ちやあてのない放浪」という、より具体的な表現にかわっている。解離性遁走はその表れ方が突然で、しかも周囲に大きな混乱を巻き起こすために臨床上問題となることが多い。ただしその多くは単回性であり、失われた記憶が最終的に回復するかは症例により大きく異なる。
ところでDSM-5 における解離性遁走の解離性健忘のサブタイプへの「格下げ」については、遁走の主症状が目的もなく彷徨するということそのものよりは健忘にあるということ、また彷徨や新しいアイデンティティの獲得が常に存在するとは限らないことがその根拠とされる22)。
筆者の日本での経験からは、解離性遁走は男性に特に多く見られ、その一部は DID と重複している可能性があるものの、基本的にはそれとは大きく性質を異にしている。患者の多くは必ずしも明白な幼少時のトラウマを伴わず、遁走中の人格状態もDID のそれのように精緻化されていない傾向にあるため、その人格状態を臨床的に取り扱うことは困難であることが多い。
筆者の日本での経験からは、解離性遁走は男性に特に多く見られ、その一部は DID と重複している可能性があるものの、基本的にはそれとは大きく性質を異にしている。患者の多くは必ずしも明白な幼少時のトラウマを伴わず、遁走中の人格状態もDID のそれのように精緻化されていない傾向にあるため、その人格状態を臨床的に取り扱うことは困難であることが多い。
トランス障害
トランス障害は、DSM-5やICD-11試案に新たに登場した障害である。解離性トランス状態とは、直接接している環境に対する認識の急性の狭窄化または完全な欠損によって特徴づけられ、環境刺激への著明な反応性の低下または無反応として現れる。無反応性は、軽微な常同的行動(例:指運動)を伴うことがあるが,一過性の麻痺または意識消失と同様に、当人はそれに気づかないことも多い。
トランス状態との関連でしばしば論じられるのが、いわゆる憑依
possession である。悪魔に取り付かれているなどの状態では、その世界に没入し、周囲とのコンタクトが取れないという特徴が見られる。ある研究は悪魔にとり付かれたという症状を訴える人々の症状が、DIDと多くの点で共通するとする。
Ferracuti S, Sacco R, Lazzari R. Dissociative trance disorder: clinical and Rorschach findings in ten persons reporting demon possession and treated by exorcism. J Pers Assess. 1996 Jun;66(3):525-39.
Ferracuti S, Sacco R, Lazzari R. Dissociative trance disorder: clinical and Rorschach findings in ten persons reporting demon possession and treated by exorcism. J Pers Assess. 1996 Jun;66(3):525-39.
多くのDIDとの臨床経験からは、DIDの場合にもこのトランス状態に近い様子を見ることがある。通常何度も出てなじみになっている人格とは異なり、目が据わり、呼びかけにも応じず、最小限の、または中途半端な応答しか交わさない。表情はうつろで視点は定まったままである。このような状態は、交代人格の出現というよりは、それとは別の解離状態、そこに生物学的な原因を強く疑うような状態である。通常は短時間だが長く続く。始まりも終わりも比較的急であるところが、解離的である。当人はそのときのことを覚えていないか、あるいはぼんやりと記憶していることもある。睡眠障害の一種と考えられているクラインレビン症候群についても、発症中は覚醒している間も朦朧とし、衝動的性が増している。再び眠りについてから覚醒すると普通に戻り、その朦朧としていた間の記憶がない。これも一種のトランス状態とみなすことが出来るであろう。
解離性障害の除外診断
わが国ではここ10年で解離性障害の診断は以前より頻繁に、かつ正確に下されているという印象を受ける。ここではその際の鑑別診断について論じる。
松本12)は解離性障害の鑑別に重要な疾患として統合失調症とBPDを挙げている(松本、12)が、本稿ではこの二つについて主として論じるとともに、特に注意が必要とされる側頭葉てんかんについても触れたい。
統合失調症やその他の精神病
幻聴や幻視、関係念慮の有無は、解離性障害、特にDID に関する鑑別診断を考える上で重要な手がかりとなる。しかしこれらの「精神病様」の症状の存在自体は解離性障害の可能性を肯定も否定もしない。DID の診断の決め手は独立した主体性を持った人格部分が心に宿るという心的現象であり、逆に言えば「精神病様」の症状が、それらの人格部分から注視されたりメッセージを伝達されたりするという体験の一部として説明することが難しければ、診断は統合失調症などの精神病により傾くであろう。
「精神病様」の症状のうち、幻聴は解離性障害が統合失調症と誤診される最大の原因となりうる症状である3)。解離性幻聴の特徴としては、内容が多彩であること、意味内容が比較的明確であること、その出現が幼少時にさかのぼることなどが多い、などがあげられる12)。また幻聴の内容が本人の生活史やトラウマに関連したものであることが多い点にも注意したい28)。また以前言われたほど、幻聴が「頭の中で」聞こえることが解離性の幻聴に特異的とは考えられていない6)。
幻視については、統合失調症においては少ないが、解離性障害には比較的多く聞かれる。また統合失調症の幻視が奇怪な内容であるのに比べて、解離性障害の幻視の内容はおおむね現実的で、過去の外傷体験のフラッシュバックという色彩を持つ 4)。ただし解離性の幻視にはファンタジックな内容や幽霊等を体験するケースも報告されている。
また直接の幻視体験ではないものの、解離性の体験における背後からの被注察感は柴山が指摘するが20)、この症状は臨床場面でも多く聞かれ、これは他方で幽体離脱や自分を背後から見ているという体験とも相補的である可能性がある。
関係念慮は筆者もしばしば統合失調症の決め手として用いるが、解離性障害においても同類の体験が聞かれることがある。ただしそれは一過性で、症状の主要部分を占めることはない。
関係念慮は筆者もしばしば統合失調症の決め手として用いるが、解離性障害においても同類の体験が聞かれることがある。ただしそれは一過性で、症状の主要部分を占めることはない。
精神病様の症状の存在とは別に、解離性障害の場合には全体の臨床経過が、統合失調症の典型的なそれとは大きく異なる。解離性障害の場合、精神病の陰性症状は見られず、全体的な社会機能の低下も限定される。また解離症状は年齢とともに軽減ないし消褪していく傾向になる。さらには記憶の欠損ないしは健忘の存在も、統合失調症とは大きく異なる点である。