共同注視の延長としての解釈
ここで暗点化を扱うという考えをもう少し膨らませて、共同注視としての分析的治療という考えについて述べたいと思います。分析的な話になりますので、これからはアナリスト(分析を行う人)とアナリザンド(分析を受ける人)という表現を用います。
解釈的な技法はアナリストとアナリザンドが共同でアナリザンドの連想について扱う営みであり、心理的な意味での共同注視
joint attention, joint gaze と考えることが出来るでしょう。まずアナリザンドが自分の過去の思い出について、あるいは現在の心模様について語ります。それはアナリストとアナリザンドの前に広がる架空のスクリーンに映し出されます。そこで二人は同じものを見ているつもりかもしれませんが、もちろんそうとは限りません。アナリザンドの連想内容から映し出される像は、アナリストにはそれが虫食い状の、極端に歪んだ、あるいはモザイク加工を施されたものとして見える可能性があります。それはまたアナリザンドの側の説明不足、あるいはアナリスト自身の視野のぼやけや狭小化や暗点化による可能性があります。アナリストはそれを注意深く仕分けすることを試みつつ、質問や明確化を重ねていくことで、少しずつアナリザンドとアナリストは、見ているものが重なってきます。アナリストがそこに見えているものを描き出し、語ることで、アナリザンドはそれが自分の描き出しているものと少なくとも部分的には重なっていると認識し、そのことでアナリザンドは共感され、わかってもらったという気持ちを抱くことでしょう。それはおそらくアナリストとアナリザンドの関係の中で極めて基礎的な部分を形成するでしょう。
ちなみに共同注視 joint
attention という概念は、精神分析の分野では言うまでもなく、北山修先生(北山、2005)の「共視論」により導入されていますが、この joint
attention そのものを分析プロセスになぞらえて論じる文献は海外では少ないという印象を持ちます。精神分析関係の論文をPePWEBで検索してもほとんど出てきません。しかしフロイトがアナリザンドが自由連想について、車窓から広がる景色を描写するという行為になぞらえたことからもわかるとおり、そもそも自由連想という概念には、アナリザンドが自分の心から浮かんでくることを眺めているというニュアンスがあります。共同注視は、その語りを聞いているアナリストも車窓を一緒に眺めているというイメージを持つことはむしろ自然な発想とも言えそうです。
北山 修 (編集)(2005)共視論 (講談社選書メチエ)
また共同注視という発想は、関係精神分析的な見方からは距離があるといわれるかもしれません。そこには治療場面で起きていることを客観視し、対象化しようという意図が感じられる一方では、両者の流動的な交流というイメージとは異なるという印象を与えるかもしれません。しかし共同注視する対象としては、今交わされている言葉の内容も、そこで生じている感情の交流そのものも含まれるのです。
ちなみに同様の発想に関して、私は一昨年(平成26年)の精神分析学会において、「共同の現実」という概念として提案したことがあります(岡野、2015)。アナリストとアナリザンドが眺めるのは、共同の現実であり、それは両者が一緒に作り上げたと一瞬錯覚する体験であり、しかしそれは両者の間にいやおうなしに生まれる差異を含みこむことで、つねに更新されていく、という趣旨です。
ちなみに同様の発想に関して、私は一昨年(平成26年)の精神分析学会において、「共同の現実」という概念として提案したことがあります(岡野、2015)。アナリストとアナリザンドが眺めるのは、共同の現実であり、それは両者が一緒に作り上げたと一瞬錯覚する体験であり、しかしそれは両者の間にいやおうなしに生まれる差異を含みこむことで、つねに更新されていく、という趣旨です。
岡野憲一郎 (2015)臨床における「現実」とは何か?
(シンポジウム特集 精神分析臨床の場における『現実』と『真実』) 精神分析研究 59;316-319
共同注視というパラダイムにおいても、アナリストとアナリザンドが同じものを注視しているという感覚を一時的に持つとしても、やがてそれぞれが見ているものの違いに気が付き、その内容はそれを含みこんで更新されていくことになります。それは同じものを共同注視しているつもりになっていたアナリザンドとアナリストが、見えているものを詳しく伝えていくうちに現れる齟齬かも知れません。またアナリストがそこに彼自身の視点を注ぐことで、藤山(2007)の巧みな表現を借りるならば、治療者がそこに「ヒュッと置くこと」により明らかになることかもしれません(藤山、2008)。