たとえば先ほどの事例では、「Aさんの母親は、Aさんが常に家にいて自分をサポートしてくれることに安心感を覚えている。」ということまでは共同注視できることになります。しかしそこから治療者が「Aさんが母親の人生を自分の人生に優先させていることに違和感を覚える」(「すなわちその点についてAさんは
scotomization を起こしているのではないか?」)と伝えることによって、Aさんとの間で食い違いが生じ、そのような治療者の見方をAさんの側からは共同注視できないという事実が浮かび上がってきます。しかし両者の会話を通して、やがて治療者の側には「Aさんのそのような気持ちもわからないではない」という形で、そしてAさんの側からも「そのような治療者の見方もあり得るかもしれない」という形で歩み寄りが起きることで、二人は再び共同注視が出来るようになるのです。
解釈的な作業を、患者の無意識の意識化という高度の技法とは考えずに、治療者と患者が行う共同注視の延長としてとらえることは有益であり、なおかつ精神分析的な理論の蓄積をそこに還元することが可能であると考えます。北山(2005)は その共同注視論において、母子関係が第3項としての対象を共同で眺めることを通じて心が生成される様を描いています。アナリストとアナリザンドが共同で何かを注視するという構図はまさに精神分析を母子関係との関係でとらえた際に役に立つであろう。
以上私の発表を最後にまとめるならば、解釈とはアナリザンドの心の視野において盲点化されていることへの働きかけであり、それは精神分析という営みを一種の共同注視の延長である、という考え方を生むということです。そこでのアナリストの役目は、無意識内容の解釈というよりは、その共同注視の内容に対するコメント、という程度のものといえるかもしれません。ちなみにギャバードはその力動的精神療法についてのテクストで、表出的‐支持的な介入のスペクトラムを示し、そこで解釈についで observation という介入を挙げています。これはしばしば「観察」と誤訳されますが、英語の口語では「見えたことについてコメントする、指摘する」という意味を持ちます。共同注視をしていて気がついたことをコメントする、程度に考えるのが、現代的な解釈と考えてもよいかもしれません。
そこで最後に共同注視における非解釈的な関わりという考えを追加して終わりたいと思います。景色や事物を母子が共同注視しつつその関係性を深めるということは、おそらくアナリストとアナリザンドの関係でも言えるのでしょう。二人が自分たちの心から離れた扱いやすい素材、例えば天気のことでも診察にかかっている絵のことでも、窓から見える景色でも、外で鳴る雷の音でも、世間をにぎわしている出来事でも、一見分析とは何ら関係のない素材についてもそれを共同注視して言葉を交わすという体験は、おそらく両者の関係を深める一つの重要な要素となっている可能性があります。私は分析においてもそのような余裕があっていいと思いますし、それが解釈の生じる背景 background を形成するものではないかと思います。そしてそのような背景を持つことで、患者の心模様を共同注視するという作業にもより深みが生まれるものと考えます。