この例では、治療者はAさんが母親を心配して家を離れない理由については、私は理解できた気がしましたので、そう伝えました。しかしAさんが「私の人生はいいんです」といった時から、彼女の話が見えにくくなり、しっくりこないと感じられるようになったのです。
私たちはある思考や行動を行う時、いくつかの考え方や事実を視野に入れないことがしばしばあります。それは単なる失念かもしれなませんし、忘却かもしれません。さらにそこには力動的な背景、つまり抑制、抑圧、解離その他の機制が関与している可能性もあるでしょう。治療者は患者の話を聞き、その思考に伴走していく際に、しばしばその盲点化されたものに気が付きます。上の例では「Aさんは一人で母親の面倒を見ようと考えることに疑問を抱いていないのではないか?」「恋人の存在さえ両親に伝えないことの不自然さが見えていないのでは?」「Aさんは私の問いかけに対して非難されたかのような口調で答えていることに、自分では気が付いていないのではないか?」などです。治療者がそれらの疑問を自分自身で持っていること自体がAさんには見えていないような様子が、治療者には気づかれます。するとこれらについて直接、間接に扱う方針が生まれます。それを私は広義の解釈と考えるのですが、それは精神分析的な無意識内容の解釈より一般化し、そこに必ずしも力動的な背景を読み込まない点が特徴です。
患者の連想に伴走しながら盲点化に気が付く治療者は、言うまでもなく自分自身の主観に大きく影響を受けています。患者の連想の中に認めた盲点化も、治療者の側の勘違いや独特のidiosyncrasy(その個人の思考や行動様式の特異性)が大きく関与しているでしょう。それはたとえば患者の同じ夢の解釈が、治療者の数だけ異なる可能性があるのと同じ事情です。また治療者の盲点化の指摘も、単なる明確化から解釈的なものまで含みえます。先ほどの例で言えば、「あなただけお母さんの面倒を見る義務があるようなおっしゃり方をなさっていることにお気づきですか?」と言及したとしても、それは、特に患者の無意識内容に関するものではありません。しかし「父親のことは別にしても、あなたご自身に母親のもとを離れがたい気持ちはないのですか?父親から守る、というのはあなたが家を離れない口実になっていませんか?」と言及することは、Aさんの無意識内容への本来の解釈ということになります。ここで患者の無意識のより深いレベルに触れる指摘は多分に仮説的にならざるを得ないことへの留意は重要でしょう。それは治療者の側の思考にも独特の暗点化が存在するからです。ただし分析家はまた「岡目八目」の立場にもあり、他人の思考の穴は見えやすい位置にあるというのもまぎれもない事実なのです。そしてその分だけ患者はそれを指摘されるような治療者の存在を必要としている部分があるのです。
さてこのような解釈を仮に技法と考え、その習得を試みるにはどうしたらいいでしょうか? 筆者の考えでは、この「暗点化を扱う」という意味での解釈は、技法というよりはむしろ治療者としての経験値と、その背後にある確かな治療指針にその成否が依拠しているというべきだと考えます。患者の示す暗点化に気づくためには、多くの臨床例に当たり、たくさんのパターンを認識することでしょう。しかしそのうえで同時に虚心にかえり、すべてのケースが独自性を有し、個別であるということをわきまえる必要があるでしょう。すなわち繰り返しと個別性の弁証法の中にケースを見る訓練が必要となるでしょう。そして治療者は自分自身の主観を用いるという自覚や姿勢も重要となるのです。