2016年12月2日金曜日

日本のエディプス ②

彼らは他と異なることを主張し,それがなくなったら、自らがなくなるのではないかとぃう恐怖を持つようだ。他方の日本社会では、他の人と同じでなくてはならないという圧力を常に感じる。懲罰者は大衆であり仲間である。いかにピントがずれないでいるか、いかに空気を読むかが一番難しいのである。ここで定番の議論である。日本は恥の文化だろうか?恥をおそれる日本人か創造的でありえるのは、個の世界がそれだけあるからである。
このように考えていくと、一つのテーマが浮かび上がってきた。私が分析的な解釈の文脈に出会うたびに感じる疑問。どうして言葉にするのか。言葉にすることで無粋になるということもあるではないか。言葉にしないことの重要性。隠すことの意味。秘密やタブーを保持することの意味。やはりこのテーマだろうか?
昔書いた論文のことを思い出した。Shame and Social phobia という論文だ。
その一部を抜粋する。(Shame And Social Phobia: A Transcultural viewpoint Bull Menninger Clin. Vol. 58 No. 3 Summer.1994. Pp.323-38

土居は(1986)[日本文化において秘匿することについて]こんなことを言っている。15世紀の能の世阿弥について触れ、彼はこう言っている。「隠されるのが花だ。隠されていないものは花ではない。」多くの文化が秘伝を有していた。もし本質的なものが隠されるのであれば、強さや力はあらわになっている。社会がいかにその表現を抑制しようと、それは自己愛的な発動である力の誇示にかなうわけはない。しかし本質が秘匿されるというのであれば、それが自然に漏れ出すという場合を除いては隠されるべきものである。

北山の分析的な貢献もある。タブーに関してはこう言うのだ。

「見るなの禁止」は日本の民話にしばしば登場する。登場人物が「見るなの禁止」を犯し、つまり魅力的な女性や妻をある時期においてみてはいけないという禁止を破り、善悪のスプリッティングの起きたものを見る、という。この種の物語は多い。

北山(1987)はまた、日本語はあいまいなままの表現を好むという。以下は英文をそのまま。
In another contribution (1987), Kitayama pointed out that the Japanese language is generally used loosely and is grammatically ill-structured. He contended that "to a large extent the Japanese communicate ideas while keeping them unspoken" (p. 499), implying that this is a manifestation on the level of language of the previously mentioned Japanese propensity to hide in order to preserve values. Of interest to our topic is that Kitayama also suggested a possible relationship between the ambiguity of the Japanese language and the high prevalence of social phobia. His idea of a "morbid fear of ambiguity" (p. 501) refers to the Japanese paranoid fear of being misunderstood by others because of their secretive and ambiguous mode of speech, which is inherent in the sentence structure of Japanese language.

結局日本人にとっての恥は、とても大切な感情なのだ。それは機能を持っている。恥ずかしさの表現は文化によって促進される。その結果として見せかけの対人恐怖状態も生まれているのだ。でもそれがなぜ重要かといえば、それが敵対関係や、他人からの羨望を抑制するのである。そしてお互いを辱める危険性から守っているともいえるのである。

 少しまとまってきたぞ。書き出しはこんな感じにしようか。
日本人として海外に滞在するという経験を通じて、私自身が考えることがとても多い。私は空港で家族や旧知の人々と再会するということが多かったが、空港で日本人は恥ずかしそうに手を挙げる程度でハグなどしない。今どきはスカイプでいつも出会っているので、久しぶりに実際にあってもあまり新鮮味はないかもしれないが、そのころは一分話しただけで百円硬貨が落ちていく公衆電話で話すことしかできなかった時代だったが、やはり同じだった。その様子を見ていたアメリカ人の友人は「君たちは感情表現というのがないのか?どうしてそんなにそっけないのか?」と驚かれた。すると少し当惑を感じたものである。別に再開をうれしくないというわけではないが、感情表現が照れくさいのである。それに「人が見ているから」という気持ちも少しだけある。しかしその他人は自分たちの家族との再会のことに心を奪われていて、人のことなど見ていないのに、である。表現しないこと、感情を隠すことは、日本人にとってかなり特徴的なことらしい。
もう一つ日本社会に顕著な問題がある。それは「相手をどう呼んでいいかわからない」という問題だ。多くの家庭で、妻は夫から自分の名前で呼ばれたことがないと不満を漏らす。ママ、とかお母さん、とかの呼び方はより一般的であろうが、それさえ照れくさくて、「あなた」とか「オイ」「ちょっと」に格下げされている妻は多い。いったい何が起きているのか。表面上にみられるのは、日本人は直接的な表現を避けるということだ。それも嫌悪するというよりは、照れや不安や恐れから回避する、といったほうがいい。

日本文化には隠されることがとても重要な意味を持つと同時に、それが日本人にとっての足かせとなっているという場合も少なくない。この秘匿性ということがエディプスの問題とどのようにかかわっているかがテーマである。
日本人の隠すというテーマに最初に出会ったのは1993年であり、そのころは社交恐怖や対人恐怖が日本にどうして多いのか、というテーマがあった。
ていう感じで書きだすか。
さて彼らは500ワードのabstract を要求している。下書きをしてみた。スペルミス、たくさんありそう・・・。

Japanese Oedipus and the issue of Secretiveness
                                                            Kenichiro Okano,MD
Japanese culture is characterized by its secretiveness and non-expression in various social context. They tend to avoid direct expression of one’s feeling as well as confrontation with other as its result. Culturally it is regarded as a virtue to hide one’s capacity and strength. In traditional art and craftsmanship, the essence and knowledge on the highest level is kept esoteric and should not be propagated to the general public. It was considered that truly essential and valuable point could not be verbally expressed or revealed. This point has been mentioned by some psychoanalysts in the past. Doi once mentioned that  Doi (1986) suggested that this belief has a long history in Japanese culture. He quoted the statement by Zeami, a Japanese aesthetician, actor, and playwright master in the 15th century, which goes "What is concealed is the flower. What is not concealed cannot be the flower." Kitayama made many psychoanalytic contributions  (1985, 1987) looked at an old taboo found in Japanese folklore against seeing and then revealing in his notion of "prohibition of 'don't look'." In another contribution (1987), Kitayama pointed out that the Japanese language is generally used loosely and is grammatically ill-structured. It appears that this secretiveness and non-revealing has some merits and even a social role. First, it inhibits envy and competitiveness that a show of one's capacity and strength would elicit in others. Second, it protects both one's strength and vulnerability by keeping them invisible to others as well as to oneself, so that they remain unchallenged and unharmed by others. (Despite these merits, however, the abundance of pseudo-sociophobic attitudes among the Japanese tends to facilitate the occurrence of true sociophobic symptoms, which are maladaptive and dysfunctional.)
This proposes an important question about Japanese Oedipus? Is their secretiveness a way of avoiding Oedipal confrontation with others? Is it defeat or higher tactic? This issue is of significance so long as Japanese is not looked at as weak and subservient, but rather ferocious and tactic as was revealed in international confrontation.