2016年11月24日木曜日

強度のスペクトラム 推敲 ③

このスペクトラムの特徴をいくつか挙げておきます。おそらくその強度に関しては、左端の精神分析から、右端の一番弱い精神療法までの曲線で描かれていますが、それはあくまでもなだらかです(図は省略)。つまり、週に4回と3回で、あるいは週1回と二週間に一度で、あるいは45分と35分の週一回のセッションで、そこに越えられないような敷居があるとは思えません。それを行っている治療者のメンタリティーは基本的には変わりはありませんし、そこには決まった設定、治療構造のようなものが少なくとも心の中では保たれていると考えています。私は精神分析は週4回以上、ないしは精神療法なら週1回以上、という敷居は多分に人工的なものだと思います。そうではなくて、左から右に移行するにしたがって、強度が低まり、ほかの条件が同じならそれだけ治療は効果が薄れていく。やっていて物足りないと思う。そしていわゆる「深いかかわり」は起きる頻度も少なくなっていくでしょう。それはそうです。何しろ四輪駆動が軽自動車になるようなものなわけですから。でも繰り返しますが、軽でも行ける旅はありますし、ひょっとしたら非常に印象深いものにもなるでしょう。
このスペクトラムのもう一つの特徴としては、これがあくまでも外的な治療構造上のものであり、実際には週4回でも弱い治療もあれば、二週に一度でも非常に強い治療もありうるということです。週4回でも非常に退屈で代わり映えのないセッションの連続でありえます。ある立場からはその退屈さに耐えることが大事だということになりますが、それは少しぜいたくすぎる話だと思います。私の言葉では、貴族趣味、アリストクラティックだと思います。
 頻回に会う関係は、しかしその親密さを必ずしも保証しません。夫婦の関係を見ればわかるでしょう。毎日数時間顔を合わせることで、逆にコミュニケーションそのものが死んでしまうこともあるわけです。逆に二週に一度30分のセッションでも、それが強烈で、リカバリーに二週間かかるということはありうるでしょう。そのセッションで一種の暴露療法的なことが行われた時にはありうることです。治療者のアクが強い場合もそうかもしれませんね。ただしその二週間のリカバリー期間も十分なサポートが必要になるでしょう。あるいは極端な話、一度きりの出会い、このスペクトラムで言えば0.01くらいの強度に位置するはずの体験が、一生を左右したりします。そのようなことが生じるからこそ精神療法の体験は醍醐味があるわけで、週一度50分以外は分析ではない、という議論は極端なのです。
 私の知っているラカン派の治療を受けている人は、
20分くらいのセッションが終わってから「あとで戻ってきてください。もう一セッションやりましょう」などと言われそうです。一日2度、一回二十分という構造など、このスペクトラムのどこにも書き入れる事が出来ません。でもそれも治療としてある社会では成立しているということが、このスペクトラム的な考えを持たざるを得ない根拠となります。
このスペクトラムのもう一つの特徴についてついでに申せば、これには幾つかの座標があり、その意味では一次元的ではないということです。一つはこれまでに話した頻度の問題があります。そしてもう一つは、セッション一回当たりの時間の問題です。これもはてはダブルセッションの90分から5分まで広がっています。さらには開始時間の正確さということのスペクトラムもあります。これもご存知の方はいらっしゃると思いますが、精神科医療には、患者さんの到着時間ファクターがあります。到着時間がいつも早い人もいれば、遅い人もいます。そして医師の診察が先か、心理面接が先かというファクターがあります。医師が心理面接の開始5分前に、例えば心理面接の始まる3時の5分前に、とりあえず患者さんに会っておこう、と思い立ちます。もちろんギリギリ3時までには心理士さんにバトンタッチできるという算段です。ところがそこで薬の処方の変更に手間取り、自立支援の書類の話が出て、あるいは自殺念慮の話になり、とても5分では終わらなくなります。心理士としては医師のせいで遅れて開始された心理療法を、定刻に終わらせるわけにはいきません。こうして起きてはならないはずの開始時間のずれが、実際には起きてしまいます。310分に始まったセッションを3時半で切り上げるわけにはいかなくなります。すると開始時間、終了時間という、治療構造の中では比較的安定しているはずのファクターでさえ、安定しなくなります。すると患者さんは、開始時間は不確定的、という構造を飲み込むことになります。これもまたスペクトラムの一つの軸です。さらには治療者の疲れ具合、朝のセッションか午後のセッションか、など数え上げればきりがないほどのファクターがそこに含まれます。