2016年11月25日金曜日

強度のスペクトラム 推敲 ④

それ頻度以外の別の治療因子に関しても、スペクトラムが成立します。たとえば料金の問題があります。カリスマ療法家による一回3万円のセッションから、保険を使った低額の通院精神療法までのスペクトラム。あるいは一回1000円のコントロールケースだってあり得るでしょう。また治療者がどの程度自己開示を行うか、ということについてもスペクトラムがあり得ます。ある治療者は事故でけがをして松葉づえをついた状態で患者を迎い入れましたが、その理由を決して自分からは言おうとしませんでした。そこまで自己開示を控える立場もあれば、少し風邪気味なだけで、「風邪をひいて少し声がおかしくてごめんなさい」という治療者だっているかもしれません。この様に治療におけるスペクトラムは多次元的ですが、大体そのどこかに安定した形で収まっていることが多く、それにより治療構造が守られているという実感を、治療者も患者も持つことが出来るでしょう。

スペクトラムの中での柔構造 ―ある心の動かし方
さて私は精神科医として、結局かなりケースバイケースで治療を行っています。つまりスペクトラムの中で、強度8から0.5まで揺れ動いているところがあります。これはある意味では由々しきことかもしれません。「精神療法には治療構造が一番大事なのだ」。これを小此木先生は何度も言われました。でも私はこれをいつも守っているつもりなのです。ある意味では内在化されていると言ってもいいかもしれません。というのも私は結局はどの強度であっても、一定の心の動かし方をしていると思うからです。そして私はそれを精神分析的と考えています。
ここでの私の「分析的」、と言うのは内在化された治療構造を守りつつ、逆転移に注意を払いつつ、患者のベネフィットを最も大切なものとして扱うということにつきます。それが私の「心の動かし方」の本質です。その心の動かし方それ自体が構造であるという感覚があるので、外的な構造についてはそれほど気にならないのかもしれません。ですからセッションの長さ、セッションの間隔は比較的自由に、それも患者さんの都合により変えることができます。それでも構造は提供されるのです。ただし実はその構造を厳密に守ることではなく、それがときに破られ、また修復されるというところに治療の醍醐味があるのです。そのニュアンスをお伝えするために一つの比喩を考えました。
かつて私は「治療的柔構造」という概念を提出したことがあります(岡野、2008)。私は治療構造のことをボクシングのリングのようなものだと表現しました。がっちり決まった、例えば何曜日の何時から50分、という構造を考えると、それは相撲の土俵のようなものです。そこでさまざまなことが起きても、足がちょっとでも土俵の外に出るだけであっという間に勝負がつく。即構造の逸脱、ということになってしまいます。その俵が伸び縮みすることはありません。(まあ、ミリ単位ではあるかもしれませんが。)ところがボクシングのリングは伸び縮みをする。治療時間が終わったあとも30秒長く続くセッションは、ロープがすこし引っ張られた状態です。そして時間が過ぎるにしたがってロープはより強く反発してきます。すると「大変、こんなに時間が過ぎてしまいました!」ということで結局セッションは終了になります。