2016年11月16日水曜日

新・無意識の性質 ⑤

 このところの、このブログの手の抜きようはナンだ!きっと何かに忙しいのだろう。

●  患者の言葉が重層決定されている以上、夢やファンタジーに関する内容解釈の意義はそれだけ少なくなる。それよりは患者が自らの表現にかける様々な抑制について扱うべきであろう。

人の心はそのようにしてランダムウォーク+来歴により構成されていく。パチンコの玉があるチューリップに吸い込まれたとしても、それが何を意味するかは余りに多くの要素に従う。それらを一つ一つ後付けすることなど出来ない。フロイト時代に始まった解釈の伝統は、分析家の習い性になっている。そこでは言葉になる以前のものを言葉にすることの意義が重要視されている。しかしそれはあまりにロゴセントリックな考え方といわざるを得ない。土居の言うように甘えが治療関係の鍵を握るとしたら、それが促進されるような関係性を追求することを考えるべきであろう。それは治療者の非防衛性により誘発される、患者の側の非防衛性といえる。

●    患者の自由連想も、それに対する治療者の解釈もエナクトメントといえる。
まさに。ダーウィニズムに従う、とは結局それはエナクトメント、ということだ。私は治療はいっそのこと、相互エナクトメントだと割り切ることで、ずいぶんスッキリすると思う。治療者も患者も、二つの複雑系同志の交流であり、そこで起きることは、双方のエナクトメントから生じる組み合わせ、創発である。すると今度はそこで生じる新しい結合が意味を持ってくるのである。その意味では思いつき、でもいい場合が多い。考えてください。将棋指しにとっては、最善手は尾状核が直感的に教えてくれる。おそらく臨床家にとっても最善の手は直感が教えてくれるのです。

  <以下省略>