2016年11月11日金曜日

退行 再推敲 最後の部分

トランプの当選の一つの背景には、彼の言動が、人々が普通は抑制するようなことに関わっているために、一種のカタルシスを味わっていた … そういうことなのだろうか?

治療が促進するときに治療者が抱いているイメージは、治療者患者の双方にとって安心感が生まれ、患者にとっては自分の感情やファンタジーの表現が危険ではなく、受容されるという感覚が生まれることである。要するに治療者に心を許し、甘えられるようになることだ。ところが問題はそれにふさわしい用語が見つからないことである。そしてそれが過去への回帰では必ずしもないにもかかわらず、あたかもそれを想起するような退行という概念がいまだに有用である理由がそこにあるのである。いわば退行とは象徴的な表現であり、それそのものではない。その意味で私が提案するのは、新しい「退行」の概念であり、そこには幾つかの条件が満たされなくてはならない。
(特に治療者に対するものを含む)感情やファンタジーの表出が安心して行われる状況の成立すること。実はこれは土居の「甘え」が生じる環境と言い換えてもいい。
 結論として退行の概念は以下の点を留意しつつ注意深く用いることで、治療的意義を保持するというのが筆者の考えである。
第一には、これまで何人かの識者が指摘したとおり、あくまでもそれは関係性の中に位置づけられなくてはならないという点である。退行とはあくまで、臨床的な現象なのだ。そしてそこには明白な転移が介在する場合もしない場合もある。
第二には、退行という概念は、必ずしも患者の生育プロセスの早期に遡るということを意味しないということである。退行により至った状態は、実は患者が実際には体験したことがない状態でありうる。その場合に患者は一種の嗜癖に近い状態を起こし、治療者との依存関係を解消することにきわめて大きな抵抗を示し、治療は膠着状態に陥るであろう。
この退行が生じた状況を思い浮かべることが難しい臨床家にとっては、甘えの概念が役に立つ。要するに患者の側も治療者の側も互いに甘えの感情を持ち、それを適切な形で表現できるような関係性なのである。
ここで棚上げにしておいた、Winnicott Balint の争点、すなわち悪性の退行は治療者のせいで起きるのか、それとも患者に内在する傾向なのか、という点について最後に述べたい。基本的には患者に依拠すると言いたい。悪性の抵抗は BPD の病理と深い関連がある。「他人が去ることへの死に物狂いの抵抗」という DSM の診断基準が示す通り、依存がそこからの「新しい出発」に結びつかないという例が、見受けられる。
良性の退行は土居の甘えの理論のように、治療に不可欠といえるが、問題は今後悪性の退行を嗜癖の観点から、力動学的、および生物学的にとらえなおすことと考える。では悪性の退行を引き起こすのはどのような要素なのだろうか?それには患者の持つこの嗜癖傾向あるいはボーダーライン心性と、治療関係の両者が関与することが考えられる。場合によっては治療者がごく常識的な対応をしていても悪性の退行が生じることもある。しかしその場合その悪性の退行を放置する治療者には何らかの逆転移、ないしは知識不足がなくてはならないであろう。