新・無意識の性質
●フロイトの無意識には欲動が詰まっていて、それが人を突き動かすと考えられた。しかし「新・無意識」においては欲動に相当するものは存在しない。その代わり報酬系と本能を備えている。
フロイトの無意識に詰まっている欲動は、それが人を衝き動かすと考えられた。ところが「新・無意識」のどこを見渡してもリビドーも欲動もない。そもそのようなエネルギー源に相当するものがないわけだ。しかし正常な人の脳は適度の活動量が見られる。おそらくそこには動因システムや報酬系が関与しているのであろうが、その正体は複雑すぎてわかって十分わかっているとはいえない。赤ん坊は生まれてから不快には泣き、快には満足そうに反応し、やがて笑顔を見せるようになる。自然界に見られるあらゆる動物と同じように動き回り、外界や内界からの刺激に反応する。おそらく生命体のデフォルトのあり方はそのような元気に動き回る存在なのである。おそらくそれはフロイトが考えたようなリビドーという名のエネルギーが充満した状態にも見えるわけだ。ちょうど100%に充電したスマホのように。しかしそれは食欲や性欲などの内側から来る動因だけでなく、面白いものを見て笑い、興味を引かれる、美味しそうなものを見ると食指が動く、というような外界への反応性という形も取るのだ。 つまりそのエネルギーの量は外界に対する反応としても生じてくるわけである。
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新・無意識は、事実上「自我」そのものといっても良く、フロイトの自我、超自我、エスのほとんどを包含してしまうであろう。他方では「意識」はワーキングメモリー程度でしかない。
さてここが重要なのだが、この新・無意識を考えた場合は、絵を見ていただくと分かるとおり(省略)、意識の部分はきわめて小さい位置を占めている。新・無意識は事実上自我そのもの、といっていいのだが、それはエスや超自我と無意識レベルで強く結びついている。超自我には前頭葉機能だけでなく扁桃核も関係している可能性がある。前頭葉や側頭葉機能の犯されたアルツハイマーやピック病では、あらゆる破廉恥な行動が生じる可能性があるし、扁桃核を両側切除するとクリューバービュッシー症候群隣、なんでも口に入れたり見境のない行動をしたりする。つまり超自我とはどこかに機関があるというわけではなく、人が短絡的な行動に走ることを防ぐような、皮質上、皮質下のあらゆる装置の総称といえる。
さて以下に述べるように、意識に上ってくる行動はその候補が新・無意識のレベルで上がってきて、最後のサイコロを振るのも新・無意識の役割だとすると、意識はそれを受け取るという非常に受身的な役割を取ることになる。その意味では意識とは巨大な新・無意識に僅かに開いたのぞき窓、といえるかもしれない。PCではRAMスペースに当たるこの意識は、ちょうどワーキングメモリーの広さだと考える人もいる。だから最近の心理学では、意識をこのワーキングメモリーと同等とみなす考え方をする人もいる。私はそれにほぼ同意するが、一つ極めて重要なのは、意識は自分は能動的だ、という幻想はしっかり守るということだ。そう、意識とは外界の知覚刺激を映し出す窓、そして起きた行動については自分が主体的にそれを選択したという感覚を持つという大切な任務も担っている。