2016年10月10日月曜日

ジャン・アブラムさんの「受胎告知」 Toward the theory of “Dissociation with capital D” ⑬ 

ジャン・アブラムさんの「受胎告知」

今京都大学に、ジャン・アブラム先生がいらしている。彼女の講演が先週の日曜日にあった。
彼女のテーマは、「受胎告知 annunciation」である。受胎告知とは、大天使ガブリエルが聖母マリアにキリストの顕現を告げること、とされる。ジャンさんは、日本にはそれがあるのか、とお聞きになっていたが、あいにく答えることが出来ていない。ともかくも受胎告知はキリスト教の世界では非常に大きな意味を持つ。このテーマをジャンさんは、精神分析の解釈と結び付けて理解しようとするのだ。結論から言えば、
「解釈とは、結局は受胎告知であり、意味の創造である。」
一見かけ離れたこの二つのテーマはどのようにつながるのか。その媒介になるのが、母子関係の問題である。そしてここで用いられるのが、母子関係に関するウィニコットという分析家の理論である。ジャンさんはウィニコットに首ったけである。だからその論旨もそれなりにわからなくもない。
解釈に関しては、ある心にあって思考にならないもの、たとえば「おっぱい欲しい」に対して、母親がおっぱいを差し出すことで子供はそれに意味を見出す、あるいは創造することがある。つまりこれが受胎ということだ。ジャンはそこにもう一ひねりして、受胎告知が、彼女の愛するマノーチという画家の作品によれば、常に暗いところで行われるという。それは谷崎潤一郎の「陰影礼賛」と関係するという。いろいろ出てくるな。さすがに日本贔屓である。つまりそれはあまりに明るく明白な「偽の自己」を配するという意味を持つというのだ。
以下は私の素朴な感想である。
この発表の最大の問題は「受胎告知」についての日本人のなじみのなさである。日本社会においては、告知はおそらく行われない。ちょうど子供がどこからきたのかを訪ねる際に、決して明らかなことを告げないように。思春期を迎えた少女についてその意味を言葉で伝えることを控えるように。ところでこの受胎告知、言わば性的交渉抜きの懐胎ということだが、一種の安堵感を私たちに与えるのはなぜだろう。そう人間の誕生が性交渉という動物的な行為を経ることなく生まれるという発想に安心感を与える。昔ある女優が、「私は子供を卵で生みたい」といったが、似たような発想である。そう、処女懐胎は性愛性の否認というニュアンスがどうしてもあるのだ。
さて私は解釈とは受胎告知であるというアイデアには少しは異議を唱えたい。大体天使ガブリエルほどに、治療者は意味を知っているのだろうか?治療者はそれほどの存在なのか。あえて言うとしたら、治療者は「あなたは意味を産出してもいいですよ」と告げる役割なのだ。母親は結局「あなたのままでいいのよ(好きなように創造すればいいのよ。)私はそれを何でも受け入れるから。」と言っているのである。
もう一つ、意味の産出(懐胎)は着想であり、それは常に無意識と意識の狭間の臨界領域で生まれると考える。それが陰影なのである。そしてそこでは必ずしも言葉による解釈は意味を成さない。言葉とは明示的である。だから解釈の文化と違い日本では阿吽、の呼吸を重んじる。沈黙の美徳を尊重するのである。


Toward the theory of Dissociation with capital D ⑬ 

  It is to be argued that Frenczi’s notion of IWA is practically speaking dissociative process, where aggressive part of personality is formed with its agency (“automaton”).
As a result of the identification with the aggressor, lt us call it introjection, the aggressor disappears as external reality and becomes intrapsychic instead of extra-psychic; however, the intra-psychic is subject to the primary process in dreamlike state, as is the traumatic trance, that is, in accordance with the pleasure principle, it can be shaped and transformed into a positive as well as negative hallucination.”

Fairbairn
It is to be stressed that Fairbairn’s theory of schizoid mechanism is practically that of splitting and dissociation. He says … it may be added that my own investigations of patients with
hysterical symptoms leave me in no doubt whatever that the dissociation phenomena of ‘hysteria’ involve a split of the ego fundamentally identical with that which confers upon the term ‘schizoid’ its etymological significance”. P92(”psychoanalytic studies of the personality” Routledge, 1952 )
“So far as the manifestations of dual and multiple personality are concerned, their essentially schizoid nature may be inferred from a discreet study of the numerous cases described by Janet, William James, and Morton Prince.

 …the personality of the hysteric invariably contains a schizoid factor in greater or lesser degree, however deeply this may be buried.(ibid, P5.)”