2) 解離性健忘
解離性健忘を一つの独立した疾患として位置づけることにはそれなりの意味がある。上記の離人・現実感消失障害は、いわば解離的な現象が現在進行形で生じていることを表すが、解離性健忘は、解離現象の結果として生じる出来事と見なすことができる。すなわちある数分ないし数分、場合によっては数時間の間に起きていた解離の結果として、後になりその時のことを想起できないのである。しかし場合によっては健忘は、想起しようとしている時がまさに解離状態のただなかにある場合としても説明され得る。DIDにおいて、主人格Aの体験した過去の記憶を、人格Bの状態では想起できないとしたら、それは人格Bという解離状態であるため、ということもできる。その意味では、解離性健忘はむしろ「想起不能状態」と形容すべきものである。解離性健忘を起こしている人の場合、想起できないことを除いては精神生活に問題がないことが多い。その人に問題なのは、過去の一定時間解離現象が生じたことであり、いわばその後遺症は残っているものの、現在の精神状態そのものには異常性がないということになる。ただしもちろんこの状態は、心の機能のうち過去の記憶が統合されていない、という意味では前出の解離モデルに当てはまることは当然である。しかしその状態の病理性ということを考える際に、上記の事情を抑えておくことは重要である。
解離性健忘はそれがそれ以外の健忘状態と区別されるべきであることは言うまでもなく、それが成立するためには健忘された期間も正常に海馬が機能していることが前提条件となる。そのためその間の出来事が情緒的に十分なインパクトを持っている場合には、大脳皮質のどこかに長期記憶として保存されているものの、そこにアクセスできない状態になっているのだ。ただしその間に本人が体験したであろう出来事の想起不能性が、解離以外の理由によるものかどうかが不明なままである可能性もある。頭部外傷を伴っていた場合、飲酒や薬物の影響下にある場合などは特に区別がつきにくい。更には情緒的な体験が強烈な場合にも海馬そのものがそのために抑制され、そのためにエピソード記憶が成立していない場合もある。PTSDなどのフラッシュバックはその種の記憶と考えることができる。そしてそのような機序で過去の出来事を想起できない場合を解離性健忘と厳密に区別する根拠もあまりないであろう。
解離性健忘は健忘された内容がどのようなきっかけで想起されるか、あるいははたして想起することが可能なのかという点が臨床上しばしば問題になる。あるケースは数日以内に思い出し、別のケースは3年かかる、さらに別のケースは10年以上たっても思い出せないということが生じる。健忘の生じる内容は、過去の一定期間であったり、遁走の生じた数日間であったりする。ただしいずれも手続き記憶は保存されているのが通常である。
退行⑦
退行が困難な状況で生じる際には二つの種類がある。一つは健康な状態への退行、そしてもう一つはトラウマ的な状態への退行。ウィニコットの話は、いつもわかりやすいな。
「環境の失敗の際は、当然それは防衛と考えられ、分析が必要である。より正常な場合には、依存の記憶への回帰が生じる。つまりその場合は臨床的に出会うのは、防衛ではなく環境に出会うのだ。後者の場合は個人の組織 personal organization はよく見えない。というのもそれは流動的で、非防衛的だからである。」
… In the case of the environmental failure situation what we
see is evidence of personal defenses organized by the individual and requiring
analysis. In the case of the more normal early success situation what we see
more obviously is the memory of dependence, and therefore we encounter an
environmental situation rather than a personal defense organization. The
personal organization is not so obvious because it has remained fluid, and less
defensive. [“Metapsychological and clinical aspects”, 1954, pp. 282-283]
この議論の中で、ウィニコットは、環境の失敗に触れないクラインの立場を批判するという。そうか、クラインにはそういうところがあるんだ。ウィニコットに言わせれば、環境の失敗として防衛を働かせた自我は、きわめて巧みに構成された自我であり、ある例ではそれが世話役という形をとる。それは何年もの分析の後に、分析家に屈するという。
ところで脱線だが、人生の最後の方で、ウィニコットはリアルな感覚というのを凄く大事にしたという。偽りの自己は、どんなに感覚的な快を伴っていても、防衛的でリアル感がない。真の自己の感覚は、それがいかに暴力的でもリアルさを伴うというのだ。
さて分析状況で退行が生じ、環境の失敗の時まで戻った際、患者は真の自己を探すのだが、それはリアルな感覚を伴ったものである。つまりは治療者への依存が生じ、そこで真の自己が体験されることが分析作業で重要になるというわけだ。そこでウィニコットは言う。退行が本来的に持つ「癒しのメカニズム」は、「初期の適応の失敗を修正するために、新しく信頼できる環境への適応が用いられる」というポテンシャルである。このように考えると、治療プロセスはそれそのものが退行を内在化させているということだろうか。