2016年9月6日火曜日

推敲 15 ②

報酬系は自傷行為により細胞死を防く(おそらく)

私はこれまでいろいろな著書で仮説的な事を述べてきた。それでも専門家から批判がないのは、実際のところ確かめようがない部分についての仮説だからである。ここでもある仮説を示したいが、その前に、これまでの私の思考過程を要約しよう。
 自傷行為は、心が限界状況に達した時のパニックボタンを押すことである、と述べた。たとえば辛い時に頭を壁に打ち付ける。すると少しだけ楽になる。それまでは痛みという不快刺激しか与えなかったはずの行為が、突然自分を救ってくれる行為となる。普段は絶対押すべきでないボタン、と言うよりはそこに存在していなかったボタンが、緊急時用のパニックボタンとして出現する。
 報酬系とはこのように心身の駆け込み寺なのだ。そこが自傷行為と連動することで、精神が破壊の危機から救い出される。(精神の、というか中枢神経系の、と言うべきかもしれない。)危機状態が長く続くと、神経細胞のアポトーシス(自然死)を起こしかねない時に、報酬系はその興奮を強制的に和らげる。その意味で神経を保護しているのだ。最近の神経保護 neuroprotection 
の研究は、一つの学会が出来るほどだが、( “Global College of Neuroprotection and Neuroregeneration (GCNN)”)報酬系はこの神経保護のメカニズムを介して細胞死を防いでいる、というのが私の仮説である。
私の考えでは、この問題は渇望の問題にも結び付く。渇望とは何か、は私が昔から考え続けているテーマであり、本書を通しても考え続けている。脳の中は一体どうなっているのだろうか? たとえば「苦しいヤクが欲しい」は渇望だが、「苦しいおなかが痛い」とどこが違うのだろうか?プロレスなどで、寝技をかけられて「苦しい、ギブアップ」とマットをたたいてサインを送るときは、渇望と似ている。だが急性膵炎で喩えようのない苦しみには、「ギブアップ」が存在しない。じっとうずくまり動かない。それどどう違うのか。
幸いなことに極度の苦しみの際は、私たちは意識を奪う。人はもうろうとなり、そのうち意識を失うということで極限状態に対処するのである。
 はるか二十数年前、家人の出産に立ち会ったが、(中略)。意識には体験できる苦痛に上限があり、それ以上は免除してもらえるというのは見ていて少し安心したが、そこで起きているのは意識が薄れるか、あるいは解離のように、意識を痛覚から切り離すというメカニズムである。すると渇望とはそうなる直前の、ある意味では意識が体験できる苦しみの限界ということになろうか。そしてそれに対する出口が用意されているということを同時に意識が知っている状態。時々思うのだが、渇望の時の苦しみは、残っている意識で体の姿勢を保ち、周囲の目を気にして普通にふるまうことに限界を感じている状態とは言えないだろうか。極度の痛みを体験している時、人は最終的にうずくまってしまい、その先には意識消失が待っている。ところが人前でその痛みを隠さなくてはならない事情があるとしたら、その時の苦痛は姿勢や表情の維持ということに向けられる。通常は自然に出来ていることを一つ一つ随意的にこなさなければならなくなり、言わばその労作がそのまま苦しみとなる。ちょうどマラソンでゴール手前になると、普段は当たり前のように踏み出している一歩一歩が苦痛となるように。

話がひどく脱線した。そう、細胞死の話をしたいのだった。精神医学の基礎知識として言えるのは、神経細胞は過剰な興奮に際しては細胞膜のカルシウムチャンネルが開いてたくさんのカルシウムイオンが細胞内に流入し、それが細胞を殺してしまうという、つまり先ほどのアポトーシスという現象が生じるということである。報酬系がすることは、快感を提供するというよりは、過剰な興奮にさらされている神経細胞を強制終了してしまうという意味があるのではないか。まさに英語圏の人々が言うところの reduce the tension が生じるというわけだ。その意味では、渇望自傷行為に至る状態、ということが出来るのではないか。

自傷行為についての仮説

前出のブルーニング博士もそのエッセイで書いていたのだが、あるストレス状況で、それに対処する手段がないとき、人は、動物は追い込まれて、ふとしたことからパニックボタンの存在に気が付くのであろう。退屈さの極致におかれたサルは、ふと体に及ぼされる痛み刺激が、通常とは違う感覚を生むことを知る。腕をひっかく、足をどこかにぶつける、などの偶発的な出来事かもしれないが、それで十分だ。腕をひっかいても痛みではなく、何となくほっとして心地よさを与える状態になっていることに気が付く。そうして意図的な自傷行為が成立するのであろう。
このように考えると、自傷行為の成立には、極度のストレス状況、それもおそらくは幼少時に生じたもの、という仮説が成り立つのだ。ふつう私たちはストレス状況に置かれて、ある種の活動を行うことで窮地から脱出する。天敵に襲われそうになったら、物陰に身をひそめたり、必死で逃げたりするだろう。しかし自傷行為が生じるような状況では、ストレスを軽減する具体的な手段が何もない、という事情があるのだろう。退屈さもそうであるし、怒りや反抗心を表出するような気概が奪われていてその状況に耐え続けなければならない。その時にパニックボタンが成立するのであろう。
痛覚刺激 ⇒「パニックボタンの成立」は、種々の精神神経学的な障害でも生じることが知られる。自分の唇さえ噛み切ってしまうほどの自傷行為を呈するレッシュ・ナイハン症候群(血中の高尿酸値を特徴とする遺伝性の疾患)など。これらは一種の脳の配線異常とみなすことが出来るが、その原因は不明だ。しかし幼少時の虐待状況などでも同様の配線異常(上に述べたパニックボタンの成立)が起きるのであろう。
ちなみに2013年に発表されたDSM-5には、付録に「今後の研究のための病態」というのがあり、そこに「非自殺的な自傷行為 Nonsuicidal Self-Injury」という項目がある。参考までにそれを転載しておこう。

A.その損傷が軽度または中等度のみの身体的な傷害をもたらすものと予想して(すなわち、自殺の意図がない)、出血や挫傷や痛みを引き起こしそうな損傷(例:切創、熱傷、突き刺す、打撲、過度の摩擦)を、過去1年以内に、5日以上、自分の体の表面に故意に自分の手で加えたことがある。
:自殺の意図がないことは、本人が述べるか、または、死に至りそうではないと本人が知つている、または学んだ行動を繰り返し行つていることから推測される。
B. 以下の1つ以上を期待して、自傷行為を行う
(1)否定的な気分や認知の状態を緩和する
(2)対人関係の問題を解決する
(3)肯定的な気分の状態をもたらす
:望んでいた解放感や反応は自傷行為中か直後に体験され、繰り返しそれを行うような依存性を示唆する行動様式を呈することがある
C. 故意の自傷行為は、以下の少なくとも1つと関連する
(1)自傷行為の直前に、対人関係の困難さ、または、抑うつ、不安、緊張、怒り、全般的な苦痛、自己批判」のような否定的な気分や考えがみられる
(2)その行為を行う前に、これから行おうとする制御しがたい行動について考えをめぐらす時間がある
(3)行つていないときでも、自傷行為について頻繁に考えが浮かんでくる
D. その行動が社会的に認められているもの(:ボディービアス、入れ墨、宗教や文化儀式の一部)ではなく、かさぶたをはがしたり爪を噛んだりするのみではない
E その行動または行動の結果が、臨床的に意味のある苦痛、または対人関係、学業、または他の重要な領域における機能に支障をきたしている
F その行動は、精神病エピソード、せん妄、物質中毒または物質離脱の間にだけ起こるものではない。神経発達障害をもつ人においては、その行動は反復的な常同症の一様式ではない その行動は、他の精神疾患や医学的疾患(:精神病性障害、自開スペクトラム症、知的能力障害、レッシューナイ八ン症候群、自傷行為を伴う常同運動症、抜毛症、皮膚むしり症)ではうまく説明されない
DSMの非自殺的な自傷行為の記載は、自傷行為について、三つの場合があることを私たちに教えてくれる。

(1)否定的な気分や認知の状態を緩和する。
(2)対人関係の問題を解決する。
(3)肯定的な気分の状態をもたらす。

ところがここに、例えばヘロインの離脱の状態は入ってこない。禁煙中でどうしても我慢できなくて、リストカットをしました、という話も聞かない。つまり報酬系がその満足のための物質をピンポイントで求めている時、自傷はその代替手段にはならないのだ。ただしその逆はあるかもしれない。失望体験があったのでやけ酒を飲んだ、とか。家族に会えない寂しさから、覚せい剤に走ったとか(某もと野球選手)?
報酬系にはいくつかの状態像が考えられるのではないか? 例えば過剰興奮状態や過少興奮状態。精神的な苦しみを抱えて、自傷行為を求める場合には、ある種の精神的な痛みを和らげるためにその手段が選ばれる。ところがそれは特定の満足手段を有するのかどうかにより性質が異なる。
過少興奮状況にある報酬系には、

1.目標となる物質が存在する場合(動的な不快1)  自傷は生じない。(自傷では和らげられない。)
2.目標となる行動が存在する場合(動的な不快2) 強迫行為を行う
3.苦痛を回避している場合 (動的な不快2)
4.心理的な要因がある場合 (静的な不快) 喪失体験など。自傷により和らげられる可能性がある。

過剰興奮にある報酬系
1.報酬勾配に導かれている場合(動的な快)
2.現時点で快楽を味わっている場合(静的な快)