2016年9月3日土曜日

推敲 14 ③

もう少し報酬系に沿って考えよう。ムヒカ氏は獄中で、再び出獄して権力を手に入れ、物質的な豊かさを得ることを想像して、そこに満足を感知できたのであろうか? そうではなかったのだろう。もちろんいい車を運転し、設備の行き届いた公邸に住むことそれ自体は満足感をもたらすであろうが、それは同時に何らかの不快や空虚さを感じさせたに違いない。ここからは私の想像であるが、ムヒカ氏にとっては自分の物質的な満足と、他人の不幸とが表裏一体であると感じられるのであろう。誰でも豪華な食事をとることはうれしいかもしれない。しかし同じテーブルの隣に座っている人がほとんど具の入っていない薄いスープしか啜っていないとしたらどうだろう? 普通の神経をしていたならその豪華な食事も喉を通らなくなってしまうに違いない。ムヒカ氏が給料の9割を返上する裏には、何かそのような心が動いているとしか考えられない。磨かれた報酬系は、自分の満足や不幸だけでなく、他者の満足や不幸もその等式の中に入ってきてしまう。
 このように考えると、磨かれた報酬系はむしろその人に満足を十分に与えないのではないか、という議論にもなりそうだ。しかしそうではない。磨かれた報酬系は他人の満足をも、自分の満足として味わうことが出来るのだ。(しかしそれにしては、ムヒカはどうして肥満しているのだろうか?決して豪華とは言えないもの、ジャンクフードなどを「飽食」しているのだろうか?まあ誰もそれを咎める人はいないだろうが。むしろ彼もまた自分を甘やかす部分を持つと言うことは私たちを安心させてくれるだろう。)
ここで報酬系の磨かれ方を表現するならば、それは物質の摂取による満足だけで満たされることなく、精神的な満足を得る能力として理解できるだろうか? 否、必ずしもそうではない。精神的な満足を得ながら、自閉的、自己愛的である人はいくらでもいるからだ。数学的、物理学的な才能がある人にとっては、数式を扱うことはそれだけで大きな満足を与えるであろう。ピアノの才がある人は、一日何時間もの演奏も喜びのはずだ。しかしそのような満足を追い求める人が自室にこもって自分の道を追求しているだけでは、そこに一種の崇高さを感じさせるとしても、偉大だという人はあまりいないだろう。「勝手に一人でやって」とも言いたくなる。部屋にこもってゲーム三昧の人と本質的にどこが違うのかを考えていくと、よく分からなくなってしまう。
もちろんこのような報酬系を持つ人は、他人にとって害にはなっていない。その意味では自己愛的な人とは違う。むしろ内向的、自閉的なのだ。しかしその人の満足体験が、周囲の人のそれに連動していてこそ、人はそれを偉大だと感じるはずだからだ。つまり愛他性がその人にとっての満足の源泉になっている必要がある。

偉大な魂はブレない報酬系を持つ

ここで私が最初に述べた偉大なる魂の例に戻りたい。物事に固執せず、余計な期待をせず、あきらめがいいということと、愛他性問題はどのように関連しているのだろうか? はたして両者に関連性はあるのか? 実はあるのだ。こう考えて欲しい。
 愛他的であることは、自己愛的な満足を得ることとは対極的である。自己愛な人とは、他人から満足体験を吸い取る人である。人が自分を振り向かなかったり、自分を称賛しなかったりすると不満に感じ、怒りを覚えるはずだ。愛他性の場合は、他者からの関心、愛情という入力ではなく、自分からの出力が問題となり、それだけ自分のコントロールの対象になる。人から愛される確証はなくても、人を愛することはいつでも好きなだけ可能なのである。
ただしあきらめのよさと愛他性とは同一の問題ではない。愛他的であることは「諦めのよさ」に貢献する要素であるとしても、愛他性を含まない諦めの良さもある。たとえばプロのトレーダーを考えよう。一つの銘柄で損失が出たからといってアツくなることなく、それはそれで諦め、善後策をもって冷静に対応するだろう。他方投資に対する依存症に陥っている人の場合は、損失が出ると諦めるどころか一気にカーッとなって、それを取り戻そうと無理な投資をするかもしれない。優秀なトレーダーであるということは、例の射幸心がいたずらに刺激されないことである、と言い換えることができるかもしれない。しかし私の中では、それは死生観ともつながっていく。というかそちらに結び付けていかないと話が面白くない。
もし自分の命が近い将来奪われるとしたらどうだろう。そこでパニックに陥る人もいれば、平然と受け止める人もいるだろう。後者の場合に何が起きているかといえば、その人は常にいつ死んでもおかしくないという覚悟を持っているのであろう。でもそれは現在の生の喜びをいささかも減じることはないのである。私の出会った偉大な魂たちは少なくともそうであった。今体験していることは喜びを与えてくれる。しかしそれは同時にいつ失われてもおかしくないという覚悟がある。これはどのような報酬系の仕組みなのだろうか? それは今の喜びが偶々、偶然に得られたという自覚があるということではないだろうか?この喜びは確かなものだが、それがこれからも続くことを保障はしない。そのことが分かっているということだ。
結局報酬系が鍛えられ、磨かれるとはどういうことかを考えた場合、一つの答えは、予想した快を得られなかった際の苦痛を最小限に抑えるということであろう。過剰な期待とそれに続く失望は明らかに人の心にとってのストレスである。そのためには、報酬系は快の予想をした後に、心の中でそれが得られなかったことを想定し、その目減らしを行っているのではないか。つまりドーパミンの反応は、二相性ではないだろうか? 彼は体験がことごとく刹那的であり、いずれは失われるものという見方をする。体験は、「それが起きることがうれしい」のではなく「それがもし起きたらうれしい」という仮定法でしか体験しないのではないか。そのように報酬系が出来上がっているのだ。
以上、本章では磨かれた報酬系の二つの特徴を示したことになる。
1.その動作が基本的には愛他性に基づくため、他者による失望の要素が軽減されている。そしてそれはより報酬系を自分のものとすることを意味するのだ。(つまりはそこでの快、不快を他者の手にゆだねることが少ないということである。)
2.先取りした快はあくまでも「仮説的」であり、条件付きのものとして体験される。そのために過剰な期待を抱いた末の失望という要素が極力少なくなっていると考えられるのだ。